初代京都駅の中央口は、東京駅の皇室専用口とは違っていた!!
2017年12月中旬の多忙な時期、カンボジアのアンコールワットから戻った翌日、TVをつけたら、東京駅前の皇居につながる「行幸通り」の大道を、馬車の行列が闊歩しているではないか。長らく閉鎖されていた東京駅玄関口の「丸の内駅前広場」が、いつの間にかオープンしていたのには驚いた。その映像を観て、はるか昔の戦前を思わせる「帝都復活」の想いをした。
というのも以前、『日本の鉄道文化史』という題名だったか、斜め読みの速読をした記憶がやけに印象深く残っていて、そこには確か、次のように書いてあった。「帝都東京の玄関口として、駅舎をつくるにあたっては帝都にふさわしく、駅の中央口は、皇居からまっすぐ連なる皇室専用口を配置して、一般人の乗・降車口は、駅の両端部に設置する設計案が採用され、設計を依頼された当時の建築界の最高権威であった辰野金吾氏も、それを名案として取り入れたようだ」。
東京駅
京都駅の皇室専用口は端部に。 中央口は一般大衆が利用
それに対して、「京都の最初の駅舎は、これとは正反対に設計されてつくられた。京都御所からまっすぐの「烏丸通り」正面に駅舎を設けたのはいいが、駅の中央口は一般大衆が乗り降りするところとし、皇室専用口は烏丸通りを右に折れた端部に配置されたので、京都市民からは大変親しまれていた」との趣旨で書かれていたように記憶している。
以来、今日の今日まで、「どうして京都駅舎が、一般大衆を優先する設計としたのだろうか」と不思議に思ったまま、疑問を解こうともせずに、放置してきた。
ただ、記憶の片隅には、いつも京都に行くたびに、「どうしてなんだろうか」と想い出させては、気にかかっていた。今、その書かれている本が手元にあるのなら、正しく調べて紹介もできるのだが、これを書くに至って、パソコンで検索しても出てこず、ウィキペディアの「京都駅」を読んでも、さらりとした沿革しか書かれておらず、その最後のページの出典・参考文献にも掲載されてない。となると、あの出版物は、今となっては幻の本であったか。
ボクが、その本を斜め読みしたのは、明治の初期に京都駅をつくったという長州出身の「長谷川」という人の末裔で、その兄の大阪造幣局長だった「長谷川為治」氏(桜の通り抜けで有名な桜ノ宮公園の造幣局に、胸像が建っている)直系の曽孫氏(メガバンクの元副頭取)から、「こんな本が出版されましたので、興味があれば拾い読みしても結構ですよ。明治初期の鉄道建設の文化史です」と言われて、その場でお借りしてのこと。短時間のうちに速読して、すぐにお返しした記憶がある。時期は今から17年前の2000年頃だっただろうか。
維新の文明開化期に、すでにパブリック意識が
その曽孫氏が、その時言うには、「思うに、京都の駅舎づくりは、帝都に対抗していたようで、明治維新の高揚感を背景にした自由な雰囲気があったのでしょうか。皇室専用口は右に曲がっての静かな場所にして、国民大衆の一般人を優先して中央口利用とした思想には、パブリック意識が当時すでにあったのではないでしょうかね」と、会話したように覚えている。
それにしても、維新を成し遂げたばかりの文明開化の時期に、長州藩士だった人が、そのような革新的な開明思想でもって、京都駅舎を設計していたのかと思うと、維新の改革がとてつもなく大胆で、ダイナミックだったことが、今にしても生々しく伝わってくる。それに引き換え、東京の駅舎づくりは明治の後期、富国強兵のもと、日本という国家の強い姿を現そうとしていて、そこの設計には、国民大衆の駅という思想は入っていなかったようだ。
なお、曽孫氏から聞いた話によると、初期京都駅をつくった長谷川なにがしという人は、その後、あの大きなドームの大阪駅もつくったそうだ。さらにそのあと、台湾に赴き、初めての鉄道を台湾に敷設し、「台湾鉄道の父」と呼ばれているそうだ。今や、台湾にも新幹線ができて久しいが。
(2018.02.01掲載)
掲載:会報「サロン・ド・ムッシュ」2018.1 冬号
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