インドの「都市住宅事情視察」調査報告
1.“遠くて遠い国”インド
2016年度の都市住宅学会関東・関西支部交流研究会は、インド北部・中部地区を対象として、インドの都市住宅事情視察を、2016年2月18日(木)~2月26日(金)までの9日間、実施した。
主な視察地は、首都・デリーを起点に、世界文化遺産のゴールデントライアングル・コースといわれている古都・アグラ(「タージ・マハル」の世界文化遺産がある)から州都・ジャイプールの3都市を、列車とクルマでぐるりと一回りしたあと、インド最大の都市・ムンバイ(旧ボンベイ)を訪ね、そこから飛行機で1時間の中部インドの古都・オーランガバード(アウランガバードとも呼ぶ)に入って、2つの世界文化遺産の「アジャンタ」石窟寺院と、「エローラ」石窟寺院を駆け巡ってきた。
私たち視察団一行7名は、全員が初めてのインド入りで、同じアジアの一員とはいえ、片道10時間(時差3時間30分)飛行の視察は、これまでの東南アジア諸国訪問とは、一味もふた味も違ってネパール・ヒマラヤ越えという西遊記なみの“遠くて遠い国”のイメージを持って入国した。
2.「PM2.5」の洗礼?
ニューデリーの立派なインディラ・ガンジー国際空港には、日付けが変わっての深夜の1時に降り立ったが、予想通りと言おうか、ものすごい煙霧に迎えられた。すぐ「PM2.5対策」用の3次元高密着マスクをつけたのは言うまでもない。
出発前、インドの知人に、「大気汚染のPM2.5が、北京を抜いて世界一多いといわれるニューデリーだが、その対策は」と聞くと、答えは、「2月までのこの時期の大気汚染は、非常にひどい。政府は車両の走行規制を始めたが、効き目がないので、日本製の高機能マスクを持ってきてください。PM2.5という数値は、日本の10倍超の濃度ですから、短期間の滞在でもマスクの装着をお勧めします」と返ってきた。日本の10倍超の濃度という数値が、どの程度なのかサッパリわからないが、とにかく街灯がかすんで暗く、予想を上回るひどいスモッグに見舞われた。
早速、その日の午前中に、オールドデリーのシンボル「レッド・フォート城」(世界文化遺産、別名「ラール・キラー(赤い砦)」)を視察したが、市内は建築ブーム。道路はクルマであふれ、交通渋滞はすさまじく、まさに“煙る首都”の大気汚染がひどい。「レッド・フォート城」の門前に来ても、城壁がかすんで良く見えない。しかし、城自体は、大変堅古な分厚い要塞となっていて立派だ。正面の城壁壇上のバルコニーからは、毎年8月15日の独立記念日に、時の首相が演説をするという。
大気汚染でかすむ「レッド・フォート城」(デリー)
3.活気ある(オールド)デリーの商業市場
このレッド・フォート城の正面から真っすぐに延びたところに、無数の商店が集まってできた大きな商業マーケットがある。この市場は、目抜き通りから無数の小道がアミーバのように張りめぐらされ、それが延々と延びており、どの小道に入ってもすごい人だかりで大混雑。とても歩いては見物できず、案内がないと迷宮入りとなる。
そこで、インドでは名物の乗り物「サイクル・リキシャー」(自転車による2人乗り)に乗って、対面交通の狭い小道をかき分け、かき分けしての散策。綿・糸・衣類のお店から、金銀細工・宝石・真珠のお店までの何から何まで、同じ業種の小さなお店が固まって、所狭しと軒を連ねている。大変活気のある大きなマーケットで、インドの高い経済成長率の見本の一つを見せられた思いだ。聞けば、ここは、イギリスによる植民地前のムガール帝国時代から、レッド・フォート城の城下町として大いに栄えてきた。皇帝御用達だった老舗もいまだに多く、結婚式などのイベントがあると、市民は皆、ここで爆買いしていくという。
名物乗り物「サイクル・リキシャー」に乗って、ゴッタ返すマーケットの視察
4.「住宅・都市貧困問題緩和省」の住宅担当局長を訪問・面談
到着翌日の19日(金)3:00PMに、在インド日本大使館古橋季良参事官、大島法子一等書記官のご案内で、貧困者向けの住宅供給を担当しているインド政府住宅・都市貧困問題緩和省(Ministry of Housing and Urban Poverty Alleviation Government of India)を訪問した。迎えたのは、高級官僚(I・A・S)のラジブ・ランジャン・ミシュラ(Rajiv Ranjan Mishra)住宅担当局長(Joint Secretary(Housing)と、サブのアムリット・アビジャット(Amrit Abhijat)住宅担当特命局長、同省建築資材・技術推進委員会(Buiding Materials and Technology Promotion Council) Deputy Chief Pankaj Gupta氏住宅都市開発公社のDr.H.S.Gill Executive Directorら。早速、ミシュラ局長から、歓迎の挨拶と貧困者向けの住宅政策の概要のレクチャーを受け質疑応答を行った。
それによると、インド政府は今、包括的な都市化計画を進めており、公共交通ネットワーク、ごみ・下水道処理、スマートシティの創出などを軸に、住宅困窮者のスラム街を解消して、新しい住宅を供給する政策も、その一環として推進している。
スラムの居住者に対しては、とくに低利の住宅ローン制度の拡大と充実を図って、新しい住宅開発地に移転しやすくする20年間の分割払いによる持ち家政策等をとっている。また、民間企業の力を借りた公民協力を加速して、住宅建設の費用に役立てていくとしている。インド独立75周年に当たる2022年までには、住宅不足を少しでも解消していく計画でいる、という。
この局長インタビューの席に配布された関連資料「インド政府と日本との協力分野」の主な概略だけを列挙すると―――
①住宅技術に関して= 住宅技術を駆使して環境技術に優れた短い工期の家を享受できるようにする。
②災害対策= 地震や津波などの天災による災害対策に関しては、日本の経験を活かしてやる。
③スマートシティ=京都での文化、芸術を混ぜ合わせた経験を活かして、100か所のスマートシティをつくっていく。
④「AMRUT」プロジェクト=上下水道、公園等の整備や環境対策を推進していく。
⑤日本の技術を借りて、インドをきれいな都市にしていく。
⑥輸送システム=地下鉄、モノレール建設などの援助により、インドでのいくつかの都市エリアでやりたい。また、日本の輸送技術の「ITS」を導入していきたい。
⑦衛生に関して=公衆の下水・衛生設備等については、より実効性の高いものをやり、費用対効果のコスト面でも環境にやさしいものをつくっていく。
⑧強固なゴミ対策行政を、インド中に実行していきたい。
⑨水素ガスを使ったテクノロジーを排気ガス等の輸送面でやりたい。
住宅・都市貧困問題緩和省の住宅担当局長らの説明を受ける視察団一行
5.スラム解消の跡地と移転先の新住宅の現地を視察
この面談後、日を改めての22日の月曜日に、スラム住民を移転させて新住宅を供給した具体的な住宅開発プロジェクトのモデル事例の現場を、視察することになった。その場所は、デリーの中心地から南西に約15kmのところの川沿いにある「バプロラ」地区。
この現場も、日本大使館古橋参事官、大島書記官が付き添ってご案内してくれた。まず、この地区担当のデリー市のオフィスに立ち寄り、責任者のB.V.Gautam氏(Superintendent,Engineer Delhi Urban Shelter Improvement Board)から、スラム居住者がそれまで住んでいたスラム街地区の跡地を案内された。そこは駅前通りの整然とした上質の中層住宅団地棟が並ぶ通りで、道路に沿ってコンクリート塀が続いている。移転前までは、そのコンクリート塀の道路に沿って粗末なスラム長屋が長く続いていたそうだ。今は、きれいさっぱり、すべてが撤去され、跡地にはコンクリートやレンガの破片が散らばっているだけだった。中層の住宅団地棟に住む人にとっては、周囲にスラム長屋がなくなったことで、居住環境・景観が格段に良くなり、住宅価値も大幅に向上し、大喜びしているという。
スラム居住者の移転先の「バプロラ」ニュータウンは、すべての棟が4階建てのレンガ造。エレベーターはない。それが何列にもなって、数えきれないほど林立している。入居は始まったばかりで、まだほんのわずかの数十棟に、550の家族が移ってきた。その奥が、どこまで続いているのかも見通すこともできないほど未入居棟が並び、その反対側に目をやると、そこのエリアも同じような4階建ての住棟がズラリと完成して、入居者を待っている。そこはまるで、日本の戦後の住宅不足時代に建てられた4~5階建ての整然とした公営住宅団地の連棟を思わせるような風景を再現していた。
住戸内に入らせてもらい、中のすみずみまで拝見させてもらったが、リビング、ダイニング、キッチン、寝室、トイレ(水をためた桶から柄杓ですくって手動シャワーとする方式のシャワー室を兼ねる)とあった。広さは1住戸どこも同じタイプの1LDKの25㎡。住んでいる層は若い夫婦と子供2、3人というファミリータイプだ。狭いながらもTVが2台もあったのには驚いた。
この新居に住むには、分譲価格10万ルピー(ただし、購入者は所有権ではなく20年間の専用利用権を取得する。なおインド通貨で、1ルピー=1.8円換算すると、日本円で約18万円。
ただし実際の市場価値は200万ルピー、約360万円相当だが格安で提供しているとのこと)を20年間の分割ローンで返済する仕組みになっているそうだが、何せ入居者がスラム街にいた貧困者なので、払える能力があるのかどうかは知らない。そうした居住者のための自動延長ローンの制度も設けられているという。なお、返済分に加えて5年間で約3万ルピーの管理費を徴収することとされている。
こうしたスラム居住者たちの新しい住みかであるニュータウンへの引っ越し状況が、現地の新聞にも大きく報道されており、ここ「バプロラ」の入居者の新生活状況も、写真入りで大きく報じられていた。それによると、「スラム街からバプロラの新しい住宅地に引っ越してきて、一見皆、幸せそうに見えるが、つぶさに見ると問題もあるようだ」と問題提起をしているような書き出しで、「一人の入居女性が言うには、排水設備が不十分なのに、以前のように自分たちでつくることができないと嘆いている。また、引っ越したせいで通勤費が上がってしまい、靴工場へ通う仕事をあきらめた、という人もいる。しかし、最大の問題は治安だ。新居の周辺には街灯がなく、身の危険を感じている、といい、また、ある男性は、引っ越してきて、1カ月で携帯電話がなくなった。隣人を疑っているが、警察に訴えてもワイロを要求されるだけで、その金額が携帯電話よりも高い。今、ここに引っ越してきて頭をよぎるのは、ここで生きていけるのか、だ」と、書かれている。
こうしたインド政府のスラム住民に新住宅を供給する政策に関して、私たちの日本においては、単なる貧民窟のイメージしか湧いてこないスラムの概念だが、現地駐在の日本人ジャーナリストによると、「インドでのスラムは、実に貧しい人々が住みやすいコミュニティーとして知られている」という。そのスラムも、日本の状況とは違っていて、「インドのスラムの多くは、政府の保有地に勝手に農村などから来た貧民が住みつき、形成されたもので、同じ地域の出身者、同じカースト出身者が固まって小さな街を形つくって住んでいる。ビル建設などの仕事がある地域の近くに、スラムが形成されることが多く、職もある」という。なるほど、スラムの認識もおのずと日本とは違っているようだ。
スラム街に居た低層カーストが移転した新居「バプロラ」ニュータウン(デリー郊外)
6.カーストに不満爆発、デリー近郊で週末暴動、難逃れる
実は、この週末を挟んでの、貧困者向け住宅問題の現場視察を無事に行えたのが不思議なくらいの<暴動>が週末、デリー近郊で発生していた。私たち視察団一行は週末、幸いなことにデリーを離れ、ゴールデントライアングル・コースと言われているアグラの「タージ・マハル」へ、そしてジャイプールへの町へと移動していたので、全く知らなかったが、一日違いで、危うく難を逃れたようだ。暴徒が鎮圧された日曜日の翌日に、デリーの市内に難なく入れて予定通りに現場視察ができたのは、私たち一行に、つきが回っていたようだ。
日本大使館の古橋参事官の説明によると、暴動は、デリー郊外30kmのところで発生、その地域の土地持ち農民層の低いカーストが、それ以下の被差別カーストへの優遇策を、自分たちにも適用するよう、当局に要求していたが、交渉が決裂して暴発したという。土、日にかけて彼らが大暴れし、クルマも商店街も焼き打ちされ、道路は封鎖されて、暴徒化し、周辺にもアッという間に広がってしまった。このため、警察官だけでは対応できず、軍隊が出動して、23人もの死者が出て鎮圧されたという。
この暴動の根っこは、カーストの下の層への優遇措置を、そのすぐ上の層のカーストが、「逆差別だ」として、同じ優遇措置を自分たちにも適用してくれという要求だっただけに、その根っこは深いものがある。インドでのカースト制は、1950年のインド憲法によって、禁止されたとはいうものの、紀元前からのヒンズー教社会から長く長く続いてきたカースト制度だけに、なかなか社会の差別は払しょくされずに、種族間や職業別に残っている。法律で禁止されたとはいえ、カーストの意識は根深く、今も社会の隅々まで残っているからであろう。さらに、カーストに属さない最下位の階級もあるそうで、文字どおりの「不可触民」と呼んでいるアウトカーストの種族もいるというから、複雑だ。その昔の昔、B.C5世紀の仏教の開祖のお釈迦さまが、このカースト制度に反対して一時的に普及はしたものの、その壁は厚く、今ではインドの人口における仏教徒の比率は、1%にも満たないというのが現状なのである。事実、レストランに入っても、女性はだれひとり働いておらず、皆男ばかり。その男も受付・会計の人と給仕をする人とはカーストの階層が違っているそうで、職業的差別も蔓延している。
いずれにしろ、このカースト差による焼き討ち暴動で、周辺一帯が道路封鎖され、鉄道の運行が妨害されたり、用水路が占拠され断水が起きたり、その影響はかなり大きく広がった。交通が完全にマヒしたことで、近くにあるスズキの自動車生産工場(現地子会社の「マルチ・スズキ」)も操業停止に、2日間追い込まれた。道路封鎖で、クルマの部品搬入ができずに生産停止となったわけだが、海外ではどこに、こうしたリスクが潜んでいるかわからない。とくに、こうした民衆暴動の怖さは、インドでも中国でも差別社会の激しいところでは、どこも同じで、しっかりと認識しておく必要があろう。それを強く感じさせた今回の暴動ではあった。
池に映える白大理石の「タージ・マハル」(アグラ)
7.ムガール帝国の古都・アグラの「タージ・マハル」へ
週末・土曜日の早朝、6:00発の特急列車に乗って2時間、190km先のアグラに向かった。すでにデリーの出発駅ロビーは座り込んでいる人で混雑しており、特急列車内も満席。列車内で軽食が出たが、これがまずくて、とても口に持っていけない。
機内食とは大きな違いだ。時刻通りの8:00にアグラ駅についた。インドの列車の時刻は、かなり乱れると聞いてはいたが、時刻通りに列車が来て出発し、時刻通りの時間に到着した。
「大理石の夢」「白亜の宮殿」といわれ、世界的にも名にし負う「タージ・マハル」に来た。胸をときめかして眼前に見た。
なるほど、イスラム建築の代表といわれるシンメトリーが美しい壮大な建築物だ。インドでのイスラム化を完成させたムガール帝国全盛期の第5代皇帝シャー・ジャハン(1627~58)が、1632年から22年の歳月をかけて完成させた。しかし、これは宮殿ではなく、彼の愛妻ムムターズ・マハルの死を悼んで造った霊廟、お墓であった。ちょうど同時期の日本では、徳川幕府を開いた徳川家康の死を弔う霊廟として、あの華麗な日光東照宮を建築していた時期とピタリと重なる。
「タージ・マハル」の主要材料の白い大理石は、隣りの州のラジャスタン州から1,000頭の象を使って運んできたそうで、建物の中には、白大理石に金や真珠の細工された宝石がはめ込まれ、透かし彫りが施され、建築様式もイスラム・ペルシャの建築デザインばかりではなかった。外側だけはイスラム様式一色だが、内部は、インド古来のヒンズー式建築も随所に見られ、イスラム・ヒンズーの混合建築物となっていた。これは、このあとに見た他の地域の名所旧跡の建造物もみな、同じような混合物だった。
当時の首都・アグラには、「タージ・マハル」のほかに見るべきところが、もう一つあった。それは、ムガール帝国の基盤をつくった第3代皇帝・アクバル大帝(1556~1605)によって造られた「アグラ城」だ。城は頑丈な赤い石で重厚につくられているが、中に入ると豪華絢爛な宮殿となっており、美しいモスクや、何百人もいた華麗な後宮、庭園など、なかなかの見ごたえがあるものばかり。
アクバル大帝は、首都アグラに飽きて、一時、40km離れたところの小さな町「ファテープル・シークリー」に城を造り、遷都した。ここにも、次の視察地の「ジャイプール」に行く途中にあったので、高速道路に乗って立ち寄った。この城も宝石を散りばめたように美しかったが、水不足のため、わずか50年の間に廃城となってしまい、それだけに今、幻想的廃墟の城”つわものどもが夢の跡”の雰囲気を十分に醸し出していた。
ここもヒンズーの町にイスラムが合体したみたいで、宮殿の柱の中・下部は、イスラム模様のデザインだが、上部にはヒンズー教のシンボルの象と蛇の彫刻で彩られていた。
8.中世の町・ジャイプール
アグラからジャイプールへの172kmは、高速道路に乗って行った。しかし、日本の高速道路と比べると、とても高速道路とは呼べず、地べたを走り、日本の一般国道並みのもの。
しかも、両サイドともガードレール一つないものだから、容易に高速道路に入り込むことができ、路肩を使って逆走するクルマや自転車があって、こちらは、ひやひやのしっぱなし。
料金所がところどころにあって、キャッシュ払いかと思っていたが、一部カード化されていたのにはビックリした。ここにもIT化の波が押し寄せていた。
ジャイプールの町は、ターバンを巻いた男が目立ち、女性も色とりどりのベールをまとい、中世の町に来たかと思わせる。
街中の多くの建物が、ピンク色に染まっているところから、別名「ピンクシティ」とも呼ばれているそうだ。そのシンボルが、町の中心部にあるピンク一色の5階建て宮殿「ハワー・マハル」(風の宮殿)。正面が、精巧に作られている透かし彫りの繊細な窓が数多くはめらている。この裏手に、「シティ・パレス」という王宮があり、今はジャイプールの王朝の品々を展示する博物館となっている。その隣りには、目を見張るほどの精密な日時計などがある天文台「ジャンタル・マンタル」(世界文化遺産)が建てられている。占星学者だった王が創ったそうだ。
町自体は、18世紀に新しくつくられているが、旧市街は、インドの歴史的都市としては珍しい碁盤の目状になっていて、都市計画が古くからあったことを思わせる。神聖な扱いの牛が、町をかっ歩しており、道路の真ん中をノロリノロリと悠然と歩いている。走行するクルマの方が避けて通り、上手に交通整理ができていた。慣れたものなのだろう。毎朝、その牛からミルクを絞って売っている。エサも町の人があげており、年老いてミルクが出なくなっても殺さず、野良牛として生かし続けるという。
このジャイプールに遷都されるまでの長い間、都にしていたのが、10kmほど離れたところにある山城「アンベール城」。この丘陵の上に造った宮殿は、極めてヒンズー色の強い建築様式で、古城ではあるが豪華につくられている。途中、麓の湖のど真ん中に浮かぶ幻想的な王宮もあって、ヨーロッパ風古城の趣をみせていた。
ジャイプールからデリーに戻るにも、また、高速道路を260km、6時間をかけて、ノンビリ走った。デリーでは束の間、ムガール帝国の第2代皇帝フマユーン(1530~56)のお墓「フマユーン廟」(世界文化遺産)をみた。第5代皇帝シャー・ジャハンの最盛期に造られた「タージ・マハル」の建築様式のモデルとなったもので、やはり「タージ・マハル」と比べると格段に見劣りする。ついでもう一つ、1206年、インドのイスラム化の最初となるインド初征服のイスラム王朝「奴隷王朝」のス
ルタン、アイバックが、ヒンズー教徒に対する勝利の塔「クトウブ・ミナール」(世界文化遺産、高さ72.5m)を見たが、中庭には4世紀のグプタ王朝時代に純度100%に近い鉄で造られた鉄柱が、今も錆びずに立派に残って立っていた。
ピンク一色の宮殿「ハワー・マハル」(ジャイプール)
「オレさまのお通りだい」と、メーンストリートを悠然とかっ歩するお牛さま(ジャイプール)
9.インド最大の商業都市・ムンバイ
ムンバイは人口2,100万人でインド最多、港湾もインド最大を誇っている。中心市街地にはインド準備銀行(中央銀行)、インド造幣局、ボンベイ証券取引所などの金融機関や財閥大手企業が拠点として集中しており、インド最大の商業貿易都市として繁栄してきた。歴史的には、1534年、ポルトガルがゴアの補助港として城塞を築き、キリスト教会を建てて、ここを「ボンベイ」(ポルトガル語で「良港」の意味)と名付けた。1857年のセポイの反乱を機に、その翌年、イギリスは衰弱していたムガール帝国を滅ぼし、英領インドとして本格的に直接統治の植民地経営に乗り出し、3年後の1661年には、ボンベイをポルトガルから割譲、現在のコロニアル風の街並みをつくりはじめた。インド独立後の1996年、今から20年前に、ボンベイからムンバイの現地語に名称を変更した。カルカッタがコルタカに、マドラスがチェンナイに、同じように名称が変わった。
早速、市内視察に。インドでもっとも多い乗降客数を誇る「チャトラパティ・シバージー・ターミナス駅」(世界文化遺産)の市中心部を通り過ぎ、長い坂を登ると、正面に、世界一高額なマンションといわれる27階建ての建物が目に入ってきた。
リライアンス財閥系の1ファミリーが1棟丸ごと使っているそうで、建物の中には、3つの公園と映画館もあり、6階がパーキングといったふうに、まさにビリオンダラー・マンションのようだ。
しかし、その一方で、国際空港の近くには巨大なスラムの町があるそうで、パキスタンについで世界第2位の規模を誇るほどの一つの町を形成しているとか。見に行く時間がなかったので、その代わりにと、現地駐在の日本人ジャーナリストが案内してくれたところが、線路わきにある「ドビー・ガード」と呼ばれている壮大な「大規模洗濯処理場」。洗濯を代々生業とする低層カーストグループが、ふんどし一つで足踏みして、大量のシーツやズボン、シャツの衣類を洗っており、それらを洗濯竿に大量に干している姿は、まさに圧巻であった。
低層カーストグループが生業としている大規模洗濯処理場(ムンバイの「ドビー・ガード」)
インド最大の都市・ムンバイの港
10.オーランガバードの「アジャンタ」「エローラ」石窟寺院
最後の視察地となる中部インドの都市・オーランガバードへは、ムンバイから飛行機で1時間、小さな田舎町のオーランガバードが機上から見えてきた。ムガール帝国の最盛期だった第5代皇帝シャー・ジャハン(あの「タージ・マハル」を造った男)の息子で、第6代皇帝となったアウラングゼーブ(1658~1707)が、この地に来て自らの名前を冠して「オーランガバード=アウランガバード」と名付け、大きな町にした。しかし、皮肉なことに、この6代皇帝から、ムガール帝国の没落がはじまっている。町にはインドで一番人気のある乗り物「オート・リキシャー」(ドアのない3輪タクシー)が数多く走っていて、
目を引く。この町が活性化しているのは、周辺に「アジャンタ」と「エローラ」という2つの有名な世界文化遺産の石窟寺院があるからで、世界中の観光客がここに集まってくる。
「アジャンタ」は、紀元前2世紀ごろから紀元後7世紀ごろまでに造営された貴重な仏教だけの遺跡で、石彫り遺跡が多い中、ここには膨大な壁画が色鮮やかに残っていて、古代インドの素晴らしい仏教美術が見られる。30ある石窟寺院に、200人の大乗仏教の修道士たちが住みついていたそうで、その中の第1窟の「蓮華手菩薩像」はアジャンタ最高傑作といわれ、法隆寺金堂の「勢至菩薩像」に影響を与えたといわれている。それにしても、このアジャンタ石窟が盗掘にもあわずに、よくぞ残っていたものと、不思議に思っていたが、現地に来て観て、その地形を見ると、なるほど残っていた理由がわかるような気がしてきた。第1に、2山も越してきた人里離れた峡谷の岩の側面に造られたこと、第2に、その石窟が密林の深い森に埋まってしまっていたこと、があげられよう。1819年に、東インド会社のイギリス人の軍士官が、虎狩りに来て、偶然に発見。あまりの嬉しさに、壁画に自分の名前を落書きした跡も残っている。
「エローラ」の石窟は、「アジャンタ」造営後の6世紀から10世紀にかけて造られた34個の石窟群で、12個が仏教、17個がヒンズー教、5個がジャイナ教のもの。エローラはアジャンタと違って、山越えもなく、平地の道路のすぐ近くの岩山を掘削して造られたものだから、昔からすぐ見つかってしまい、内部の壁画はほとんど残っていない。石彫りにしたって、無数の象の鼻がへしおられ、神々の顔や手がえぐられている。
オーランガバードに戻る途中の村落の家々を見ると、それぞれの家に、いろんな旗がなびいているので、現地のガイドに聞くと、ヒンズー教の旗は赤かオレンジ、イスラムは緑、仏教は白、ジャイナ教はあらゆる色の旗と、それぞれの違いを教えてもらった。ほとんどがヒンズーの旗ばかりで、わずかに緑の旗があり、白はなかった。旗色は鮮明だが、村民同士は宗派の対立もなく、上手に融け合ってコミュニティーをつくっているそうだ。
貴重な仏教遺跡の「アジャンタ」石窟寺院の全景
「アジャンタ」の浮き彫り彫刻
「アジャンタ」の仏像
ヒンズーの寺院
<<下記が都市住宅学会に掲載された記事です。
ここをクリックすると、詳細がすべてご覧いただけます。>>
掲載:都市住宅学会機関誌「都市住宅学」(2016年春号)
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