倭王・邪馬台国は、やっぱり九州王朝に成立?(2) ――
「金印」の出た志賀島の志賀海神社に、「君が代」の神事が
玄界灘に臨む博多湾の入口にある「志賀島」に行って驚いたのは、かの有名な「漢委奴国王」(かんのわのなのこくおう)の金印が発見された場所「金印公園」ではなくて、船着き場から正面にある、いかにも古めかしい「志賀海神社」でのこと。ここは海上交通の要衝である博多湾の総鎮守として、神代から「海神の総本社」「龍の都」と称えられている海の守護神。鳥居や本殿、本殿のしめ縄のどれをとってみても、古い歴史の重みを感じる。何に驚いたかというと、神功皇后という神話の時代から「山誉め神事」の神楽祭が毎年行われており、その神事の台詞の一節に、なんと『君が代』の文句がそっくり謡われている、というのである。
「君が代は 千代に八千代に さざれいしの いわおとなりて こけのむすまで」
「志賀の浜 長きを見れば いくよへぬらむ 香椎路に向かいたる あの吹き上げの浜 千代に八千代まで」
などと五七調で長々と謡いあい、櫓を漕いで「よせてぞ釣る」「いくせで釣る」と、鯛釣りに行く様子を表現した実に面白い神楽だそうだ。毎年2回、春は4月15日に、その年の五穀豊穣・大漁などを願う「山誉め種まき漁猟祭」、秋は11月15日に、1年のご加護と収穫に感謝する「山誉め漁猟祭」に行われている。素朴であるがゆえに他に類を見ないものとして、福岡県の無形民俗文化財に指定されている。
『君が代』の起源は福岡地方に。細石神社もあった。
国歌『君が代』の由来はよく知らないが、歌詞の出典は、「古今和歌集」や「和漢朗詠集」などからといわれている。それよりもさらに古い、この志賀海神社で古代から伝承されてきた、というのだから驚きである。ひょっとすると、『君が代』の起源は、この地、北九州エリアから発祥し、広まっていったのではなかろうか。倭国・邪馬台国のあった九州王朝の誕生を思えば、なかなか意義深い。
【写真説明】
志賀海神社の本殿。古代から伝承されてきた「山誉め神事」の神楽がここで行われ、すでに『君が代』が謡われていた。
その「山誉め神事」の案内パンフを頂戴した社務所の神官がおっしゃるには、「君が代の起源は、この福岡の地域から出ているのではなかろうか。隣りの「伊都の国」といわれている糸島市には、「細石神社」(さざれいしじんじゃ)があるし、その周辺の遺跡からは三種の神器も出ている」と言うので、こんもりとしたマテバシイの老樹が鬱蒼と繁る、かなり古代の雰囲気のある神社をあとにして、昼食もそこそこに足を速め、糸島市にあるという「細石神社」を目指した。
博多ふ頭に戻り、天神から駅を乗り継いで唐津方面行きのJR波多江駅で降り、タクシーに乗って田んぼの広がる道路脇の溝地に、「細石神社」はあった。社前に立ってみると、ガッカリした。志賀海神社の延長で、そのイメージが大きかったせいか、あまりに小さな、その辺のどこにでもある村の鎮守の神社だった。その上、細石神社とは名ばかりで、境内のどこを見渡しても細石は見当たらず、町会で神社に集まっていたオバさんたちに聞いてみても、祭壇さえもないという。『君が代』の起源にも関係している地域にしては、寂しすぎた。しかし、よく考えてみると、大昔は仏教が入る前だったし、集落の人口もわずかであったろうから、そんなものだったに違いない。
「三種の神器」の出土品が、北九州一帯に
神社が小さく寂れていたとはいえ、この地は、「魏志倭人伝」に「代々王あり」と書かれ、強大な力を持っていたといわれている倭の国の一つ、「伊都の国」の中心にあり、その周辺には伊都国王の王墓遺跡群が群がっていた。細石神社の西、わずか50㍍のところには、王墓遺跡群の中でも最も古い弥生時代の「三雲南小路遺跡」がある。そこは、ただの草地に遺跡の説明看板がかかっていただけの殺風景だったが、大きな1号甕棺(かめかん)墓には王が、2号甕棺墓には王妃が埋葬され、その豪華な副葬品には、銅鏡、銅剣、銅矛、勾玉などが大量出土している。少し離れた「平原(ひらばる)遺跡」の王墓からも同じような三種の神器が多数出土しており、これらの出土品は国宝に指定され、近くの「伊都国歴史博物館」に大量展示されていた。
やはり、ここ伊都国・糸島地方には、志賀海神社の神官の言われた通り、寂れてはいたが細石神社があり、三種の神器をはじめとする豊富な王墓の副葬品が出ており、これと一つ山越えた奴国・春日市の「須玖岡本遺跡」や北部・宗像地方の宗像大社の沖ノ島(おきのしま)からも、同じような三種の神器が揃って出土していることは極めて注目されよう。
三種の神器は、古代日本では権威のしるしとされてきたことから、この北九州一帯が、倭国王朝の古代国家の形成がなされていたのではなかろうか。となると、倭国・邪馬台国、その女王・卑弥呼はやっぱり、この地・九州に成立していたのではなかろうか。それが最近では、近畿説の奈良の「纏向(まきむく)遺跡」の「箸墓(はしはか)古墳」(桜井市)が卑弥呼の墓ではないか、というのが有力情報だそうで、歴史家でないわれわれには、全くチンプンカンプンの幻想話、わけがわからなくなってくる。
「伊都国歴史博物館」のボランティア学芸説明員は、
歴史に造詣の深い個人タクシーの事業者
それはともかく、その「伊都国歴史博物館」に行くには、周辺は田んぼ。「三雲南小路遺跡」に接している農家の主人がタイミングよく出てきて、われら田舎風東(あずま)男2人を見かねてか、わざわざクルマで歴史博物館まで送ってくれた。さすが、九州男児の優しさに感銘した。
「伊都国歴史博物館」は、よくできていて、旧館、新館4階まで「伊都国」の世界を、旧石器時代からの歴史や文化財の出土品を大量に展示・紹介しており、古い歴史を知らない人にも随所に興味をそそるようになっている。その日は、ゆっくりと見てまわるにふさわしい、親切な学芸説明員にも恵まれた。
その学芸説明員は、『魏志倭人伝』にある伊都国の説明に始まり、伊都国・糸島地方の地勢と遺跡の分布、その出土・展示品、とりわけ銅鏡の形、文様に詳しく、わかりやすく説明され、まるで伊都国のタイムカプセルに戻ったような感じがした。加えて、九州王朝説にもかなり精通されていたので、聞けば、ボランティアの学芸説明員だった。自由な時間に来て、自由に来訪者に対応しているという。
別コーナーには、卑弥呼と対立・対抗したという邪馬台国最大の南のライバル国の「狗奴(くな)国浪漫~熊本・阿蘇の弥生文化」のユニークな特別企画展も催しており、最近発見された弥生時代の熊本・阿蘇の遺跡や出土品に焦点を当て、ベールを脱ぎ始めた“火の国”の弥生文化を紹介し、目を引いた。
こんな辺鄙なところまで訪ねてきてよかった、としみじみ感じる歴史博物館だったが、さて戻ろうとするには大変足の便が悪いところ。どうしようかと思案していたところ、先ほどの学芸説明員が現れて、「私が近くの駅まで送ってあげますよ」との親切ぶり。待っていたら、なんとそのクルマは個人タクシーで、彼が運転手。帰りのタクシーの中でももちろん、邪馬台国の歴史話に花が咲き、意気投合して別れた。
これで、ボクの福岡・邪馬台国の探訪は2泊3日で終わり、やむなく東京に戻らなければならず、断腸の思いで博多を後にした。が、九州倭国王朝跡のテーマを持った柳町監督はそのあと1人、九州は南方面の朝倉路へ、そして久留米・八女の磐井(いわい)の乱の磐井の墳墓とされる岩戸山古墳のある築後路へと、また戻って今度は北方面の宗像地方の宗像大社へと足を延ばし、さらには対馬、韓国を臨む壱岐島「一支国(いきこく)」にまで泊まり込んで、宗教の威力、天皇制の起源といった視点から洞察した長旅をしてきたそうで、その報告が今から楽しみだ。
東京に戻って、しばらくたったある日、「伊都国歴史博物館」での個人タクシーのボランティア学芸説明員から、「お尋ねの水城築造、大宰府都府楼のいきさつにつきまして、九州古代史の会の発表した資料がありましたので、お送りいたします」との厚い封書が届いた。その資料の題名は、なんと『盗まれた倭国~真実を語る神籠石(こうごいし)』というセンセーショナルなもの。大変興味深く読ませていただいたことは、いうまでもない。又、盗まれた倭国・九州の古代史の旅に行きたくなった。その折は、お世話になった個人タクシーを使おう。
(おわり)
日本不動産ジャーナリスト会議(REJA)
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