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倭王・邪馬台国は、やっぱり九州王朝に成立?(1)
―― 福岡の大宰府都府楼・奴国・伊都国を訪ねて(2015年2月)

 「邪馬台国はどこにあったのだろうか」「卑弥呼は九州のどのあたりにいたのだろうか」、そして「大宰府は単なる出先の地方官庁だったのだろうか」といった古くて新しい単純素朴な疑問を持ったまま、なかなか福岡には行けなかったが、「邪馬台国はやっぱり奈良のヤマトではなく、九州なのでは」という水戸の高校同級生で日韓・日中の歴史に詳しい柳町光男映画監督が、「大越クン、九州の現地に行ってみないか。卑弥呼の匂(にお)いでもかげればいいじゃないか」と誘われたので、思い切って2人で訪ねてきた。

柳町光男映画監督とのヤジキタで、奴国に

 ついで、博多の地元で地域おこしをしている畏友の城島博ラウンドスペース社長が、持論の「九州の邪馬台国勢力がヤマト王権と融合し併合した」といっているので、「持論の展開も含め、九州邪馬台国の匂いをかがせてくれないか」と懇願したら、2つ返事で「大歓迎だ。クルマで案内役と説明役をかってでるよ」とのことで、力強い味方も得た。 城島社長は、地域おこしのスマートコミュニティ誌『那国ものがたり』創刊号の発刊直前だったためか、まず、その目次どおりの福岡市内の「那国(奴国)」の遺跡から案内してくれた。

 那珂川と御笠川に挟まれた「那珂遺跡群」は、博多の中央に位置し、福岡平野のデルタ地帯である。説明役の彼は「ここは日本列島最古の都市形成をなしたところで、博多の街はローマと同じ、至るところ遺跡だらけ。しかし、ローマと違ってビッシリ、家やビルが建ってしまっていて、残念だが掘り起こせない」。と言って、JR博多駅からすぐの「比恵遺跡」「比恵(日吉)山王神社」「那津官家」、アサヒビールの工場敷地内にある「剣塚古墳」、「那珂八幡古墳」、そして水田水稲の始まりとされる弥生時代の環濠水田農耕集落が実感できる「板付遺跡」をグルリと視察。「比恵山王神社」の宮司夫人からはお茶を出され、「縄文・弥生時代の昔は、この神社が博多の街で一番高いところで、ここから博多の市内は海、那の津だった」と聞かされ、ロマンをかきたてられた。

【写真説明】
九州王朝の首都ともいわれる大宰府都府楼(政庁)跡

 その足で、隣りの春日市の「奴国の丘歴史公園資料館」へ。ここは、3世紀に書かれた「魏志倭人伝」に出てくる「奴(な)国」の中心地とされる弥生時代からの史跡「須玖岡本遺跡」のあるところ。丘の上には奴国王の墓とされる甕棺(かめかん)墓があり、銅鏡や銅剣、勾玉の三種の神器が副葬品として大量に出ているのには驚いた。ちなみに、三種の神器はヤマト朝廷の近畿からは出ていない。

 また、かの有名な「漢委奴国王」(かんのわのなのこくおう)の金印が、博多湾の入口の志賀島から発見されたというのも興味はつきない。というのも、やはり博多湾近くに倭の奴国の王がいて、倭国の首都が奴国にあったかもしれないし、倭国王の卑弥呼も「親魏倭王」の金印を賜っていたというから、倭王・邪馬台国は九州にあったに違いない。これからの視察で、はたして、その匂いだけでもかげれるだろうか――。

「大宰府」とは、「地方政庁跡」か「都督府跡」か

 翌日は、柳町監督と2人だけで早朝から、いざ大宰府へ。大宰府といっても菅公天神様を祭った「天満宮」はどうでもよく、目あての「大宰府政庁(都府楼)跡」に直行した。そこは、小高い山を背にして、草に覆われた広大な敷地に大きな礎石が残っていて、内裏と思われる中心部に石碑が数本建てられていた。
 その石碑に、「都督府」と刻まれていたのを柳町が発見してすぐさま彼は、「“都督府”というのだから、ここは単なる出先機関の地方官庁ではなかったのではなかろうか。今もって「都府楼跡」と呼んでいるし、西鉄の駅名にだって「都府楼前」と、ちゃんと使っている。どう見たって、ここに都(みやこ)があったのではなかろうか――」と。

 確かに周囲を見てみると、碁盤の目のような条坊制によって都市区画割りがされていて、南の正門方向には朱雀門の看板もあることから、中国の長安(現西安)にならった王朝の都市づくりがなされたようだ。わが国最初の条坊制をしいた都城といわれる藤原京(694年、奈良県橿原市)と比べても、大宰府の方が古い条坊制の都城ではなかろうか。現に、都府楼内裏跡西側の「蔵司(くらつかさ)地区」では、その日も倉庫建物の蔵司史跡の発掘調査が行われており、大きな礎石建物跡の存在が確認され、そこにいた歴史資料館の説明員からも、あらまし聞かされた。
 5年前、中国・西安視察で見てきた古代・漢時代からのいくつもの王朝王宮跡地と比べてみて、その規模の大きさはあまりにも貧弱すぎる。しかし、奈良の無味乾燥な平城京と比べてみると、大宰府の方が、都府楼跡の東隣りの一角に藤原京よりも古刹の観世音寺(国宝の梵鐘は681年の飛鳥・白鳳時代で、わが国最古といわれる)がデンと並んで居座り、あたりを見渡してみても王朝跡の雰囲気を十分に醸し出しており、匂いも感じられた。

巨大な「水城」築堤は、「白村江の戦い」以後なの?

 古代史の歴史認識だが、こう見てくると、倭国(日本)軍が、唐・新羅の連合軍に大敗した663年の白村江の戦いで、この地に大宰府が移され、ヤマト朝廷の出先機関の地方官庁だった、という歴史認識を見直す必要があるのではなかろうか。
 ついで、白村江の戦いに敗れ、その翌年の664年に、大宰府の手前、御笠川に沿った東西からの山地が迫る最も狭くなった平地に、「水城(みずき)」の巨大堤防を、出先地方機関の大宰府を守るためにつくったという通説も、かなり怪しいものだと、大宰府都府楼探訪後に、「水城跡」(全長1.2㌔㍍、幅80㍍の基底部、高さ10㍍)の史跡を歩いて強く実感した。

【写真説明】
全長1.2kmの巨大な「水城(みずき)」大堤の復元図

 第1に、大宰府防衛のために、あのような巨大「水城」を、大敗の翌年に急造したというからには、それ以前に大宰府王朝がそこに確立していなければおかしい。単なるヤマト朝廷の出先機関なら、あれほどの大規模公共工事の巨大大堤をつくることもなかったろう。大宰府は「都督府」の名のごとく、倭王朝の九州朝廷がそこにあったればこそ、「水城」の大堤を築造して守るに十分な必要性があったと考えるのが、妥当ではなかろうか。
 第2に、これは柳町監督の話だが、彼によると「白村江の戦いに敗れて、唐の軍隊が九州に駐在していたことは、中国の『旧唐書』にも、『日本書紀』にも書かれているのだが、戦勝国の唐の軍隊のいる前で、「水城」がつくれるのだろうか。そんなことが平然と『日本書紀』には書かれている。まったくおかしいよ。「水城」の堤防は、白村江の敗戦の前につくられていたのではなかろうか」と、文字のなかった時代をよいことに都合よくまとめられている『日本書紀』だけに頼る古代史の見直しを迫っている。確かに、歴史歪曲を避けるためにも、文字の国・中国の古代文献と照らし合わせた歴史検証、とりわけ謎といわれる日本の7世紀年代の検証がのぞまれるところだ。

 「水城」を見終わる頃には、日没近くなっていた。もちろん、その夜は博多に戻り、「倭王・邪馬台国は九州にあった」と熱烈に主張する九州ナショナリストの城島社長を交えての古代史の大論争。酔いの冷めない翌朝早く、柳町監督と2人、博多港からフェリーに乗って、あの金印「漢委奴国王」の出たところ、博多湾の入口の「志賀島」に――。

(つづく)

日本不動産ジャーナリスト会議(REJA)

 
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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