不動産ジャーナリスト 大越事務所
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「楯の会」創設者の畏友・持丸(松浦)博くんを偲ぶ(3) ――死せる持丸、生ける代役俳優・渋川清彦との邂逅

 平成24年7月初旬、持丸くんが柏の国立癌センターに入院した直後、映画監督の鬼才・柳町光男くん(水戸一高の同窓生)から、1本の電話が入ってきた。「若松孝二監督(注:平成24年10月17日死亡)の映画『11.25自決の日・三島由紀夫と若者たち』を今、テアトル新宿で観てきたんだが、驚いたことに、持丸博の名前が実名で何度も出てくるんだよ。2時間ものの前半分が、楯の会をつくった経過の彼のストーリーになっている。持丸役の俳優・渋川清彦氏を知っているが、冷静なところが似ていたな。持丸と親しい大越クンだから(知らせた)、ぜひ一度観に行ったら。カンヌ国際映画祭に正式出品したし」というので、その夜、早速、持丸くんの自宅に電話を入れた。

映画『11.25自決の日・三島由紀夫と若者たち』に実名で登場

 「持丸くんが実名入りで登場している三島由紀夫事件の映画が今、封切られているらしいが、持丸くんはそれを知っているんでしょうね」と尋ねたら、「寺島しのぶが出ている『キャタピラー』という映画をつくった若松監督とかいう変な人のでしょう。主人に連絡があって、本人は知っていますが、どのように扱われているか、若松監督との立場も考えも違うので、観る気もしない、と言ってましたよ。今、主人の看護から戻ってきたばかりですが、病状が悪化し先行き危険な状態でして、お見舞いはことわっています」――。彼はとうとうそのまま、だれとも面会できずに闘病1年3カ月、口もきけぬまま帰らぬ人となってしまった。

 その電話のあと、下北沢の場末の小さい映画館「トリウッド」で、若松監督の2本立て映画『実録・連合赤軍あさま山荘』とともに、じっくり観た。観客はわずか10人余。映画はなるほど『三島由紀夫と若者たち』の題名通り、三島と持丸くんら楯の会の若者たちを、それぞれに似せた俳優を使ってドキュメントするというわかりやすいストーリー。最初に、昭和41年、早稲田大学史上初の全学ストライキの字幕。左派学生の闘争が150日に及ぶ中、持丸が(のちに三島と一緒に割腹する)森田必勝に向かって、「このまま左翼をのさばらさない。一緒にやらないか」というと、森田は間髪いれずに「はい、やらせてください、先輩」と。正面に大きな日章旗。「日本学生同盟結成大会」と書かれた黒板。右派ナショナリスト学生の旗揚げだ。続く42年、場面を変えて三島由紀夫邸の応接室。持丸が三島と初対面し、意気投合する場面だ。三島が「持丸君、日本刀を触ったことがあるかい、持ってみたまえ」といって、白刃を持丸に差し出して、「刀は鑑賞するものではない。生きるためにあるんだ。この生きた刀によって、われわれは60年安保以来続く、日本の知識人の欺瞞をえぐらなければならない」――こんなふうな展開で、「楯の会」結成へと続く。

40年後に語った「楯の会」の脱退理由と背景

 以前、三島邸を初めて訪問した時のことを持丸くんは、筆者に「私は民族派。三島先生は高名な文学者。文学のことは私にはわからないが、左翼過激派学生の行動が日増しにエスカレートしていく中、われわれの憂国の思いを先生に話したら、呼応してくれた」と、言っていた。そして、三島事件の起きる1年2カ月前の昭和44年の秋、彼が「楯の会」を脱退した時のことを、彼は「これについては、いろんな大きな要素や背景がからんでいて、とても一言でやめた理由を話せないよ。近く出版して、おおやけにしようと思っている」と言って、長い沈黙を破って真相を明らかにしたのが、例の『<証言>三島由紀夫・福田恆存たった一度の対決』という本だ。それが平成22年の時だから、三島事件から何んと40年も経っている。

 彼は、その本の中で脱退理由と背景を、「あえて整理すれば3点ほどあり、その1つは、楯の会の活動と生活とを別な次元で考えていたこと、平たく言えば三島先生による“丸抱え”を私は拒否した、2つ目は、『論争ジャーナル』への戦後の大物フィクサーと呼ばれた田中清玄からの資金をめぐる件で、三島先生が激怒し、先生と『論争ジャーナル』仲間とのハザマで思い悩んだ末の苦渋の決断、3つ目は、三島先生と私の間には思想上のある重要な一点で相克があったこと、特に国体観念についての考え方の違いが大きく、さらに猪瀬直樹氏が指摘するように、当時の政治状況の変化に対応する基本姿勢に相違点があったことなども事実だが、これだけでは不十分」と書いている。

 その場面を、若松監督の映画では、持丸が三島に辞めたいという申し出をドキュメントしているところから追っているが、三島が持丸を最も信頼していただけに、持丸の脱退申し出に三島が「いや、おまえが辞める必要はない」と動揺し、「持丸・・・・2人で作ってきた楯の会だ・・・・。おれが給料を出す。楯の会の事務局をやらないか?」といって、引き留めようとしても翻意しない持丸の長い沈黙。三島が落胆し、失望に打ちひしがれる表情をうまく表現していた。

 平成25年9月24日の当日、持丸くんが亡くなったと、電話で知らされてから数日後、柳町光男監督から「飲まないか」と誘われたので、「持丸がとうとう亡くなったよ」と告げたら、「そうか。じゃ、気晴らしにおれの古い映画『火まつり』(注:純文学作家・中上健次の書き下ろし脚本で、堤清二の西武セゾングループ第1回製作作品。昭和60年度カンヌ国際映画祭正式出品。主役の北大路欣也がキネマ旬報主演男優賞)が、渋谷・円山町のラブホ街の一角のミニシアター「シネマベーラ」で上映されているから、それを観て、飲もう」ということになった。ちなみに柳町は、「この映画はカネがなかったので、中上健次と2人で堤清二を拝み倒して製作費2億円を出してもらった。西武の役員のほとんどが反対したらしいから、本当に有難かった。おれが39歳のときの作品で、内容も一番難しかったな」と述懐している。それにしても、これまた亡くなったばかりの作家兼経営者の有名文化人である堤清二氏が、全く立場も思想も違う持丸博くんと柳町光男くんの2人の高校同窓生を、それぞれ違った形で支援していたとは、大したものである。

柳町監督が、持丸役の俳優・渋川清彦の間を取り持つ

 その『火まつり』を観終わったあと、ミニシアターの出口でパッタリ、若松監督映画『11.25自決の日・三島由紀夫と若者たち』に持丸博役で出ていた俳優・渋川清彦と、偶然にも出会ったのである。彼を知っていた柳町監督がビックリして彼に声をかけ、「どうしてここにいるの。おれの映画をわざわざ観にきてくれていたとは、ありがたいね。これも何かの縁かな」といい、「大越くんを紹介するよ。渋川清彦さんが扮した持丸博くんと大越くんとは高校時代の同じクラスの親友で、その後も一番親しい間柄なんだよ」となって、円山町の安酒場に一直線――。先ずは3人で持丸くんに献杯をしたのは、言うまでもない。

 柳町監督が、「それにしても不思議な出会いだな。持丸博役を演じた俳優の渋川清彦が、『火まつり』上映最終日に観に来ていたというのも偶然だが、ひょっとすると、見舞うこともできずに亡くなってしまった持丸くんが、代役の渋川清彦に乗り移って、大越くんとを引き合わせたのかもしれないね。まさに“死せる持丸、生ける持丸役の渋川清彦を走らす”か」と、この偶然な出会いに驚いていた。渋川清彦さんは、「撮影時に私が『持丸さんに手紙を出したいな』と言ったら、若松孝二監督から即座に『よせ』と言われてしまい、やむなくやめました。そうですか大越さん、持丸さんが先月・・・死んでしまったんですか。一度、お会いしたかったのに・・・残念です」と、まるで持丸役と同じ口調で酒を一気に飲み干した。柳町監督が、「若松監督が止めた理由がわからない」と、すかさず一言。俳優・渋川清彦さんは今、映画『そして泥船はゆく』(渡辺紘文監督の映画制作集団「大田原愚豚舎」の初作品で、平成26年2月15日から上映)に主演しており、インディーズ(独立系)でメキメキ腕をあげている渋い人気俳優になっている。

世界的な視点に立った高いレベルのナショナリスト

 さて、持丸くんのことだが、今、日本を取り巻く環境は、平成24年9月の尖閣3島国有化以来、中国、韓国との間での領土問題、靖国参拝問題、従軍慰安婦問題、歴史認識等をめぐって緊張が高まり、NHKの何人かの新経営委員に見られるような偏狭なナショナリストが何かとかまびすしく放言しているが、持丸くんは、そのような後ろ向きな偏狭・排他的考えは持っておらず、むしろ世界的な視点に立った高いレベルの思想性を持ったナショナリストであった、ということを親友として断言しておきたい。

 彼は、「世界がボーダレスの時代になればなるほど異文明間の衝突は激しくなる。この10数年間、世界各地で起こっている紛争や事件を見れば明らかだ。利害の対立する国際間では、調整は根本的に不可能で、まずはそう見極め、覚悟することから出発することが重要。したがって、国際関係の基本は駆け引きと妥協」と語っている。また、「国家主義者と共産主義者の差というのは、ある意味で紙一重だ」と、極端な国家主義に走ることへの危うさを口にしていた。彼には深い学問的裏付けと分析力とがあり、それに加えて柔軟な頭脳と高い知性にあふれていた。それだからこそ、これからの疾風怒涛の激動期に、彼の活躍が大いに期待されていた。誠に惜しい“国士”がまた一人、はるか昔の青春時代の「三島事件」の重い十字架を背負ったまま、天国に召されていってしまった。もう、彼と語り合うこともできない。寂しい限りだ。

「楯の会」概況
●創立者
作家・三島 由紀夫(本名・平岡 公威)
 (昭和45年11月25日 割腹自決=三島事件)
初代学生長・持丸(松浦) 博
 (昭和44年10月12日 脱会)
●組織
結成・昭和43年10月5日
解散・昭和46年2月28日
●設立の経緯
三島由紀夫が文化防衛論の立場から、祖国防衛隊の 設立を構想し、民兵組織の一つとして、早大生の持丸 博ら学生を中心に組織した。当初の目標は、民間防衛 隊の“将校”の養成であった。資金は全額、三島個人 の負担で、会員は、昭和43年の第1期生33名から 同45年3月の第5期生まで約130名余。
●「楯の会」の思想・主義
  1. 反共(共産主義は、日本の歴史・伝統・文化と 絶対に相容れない。)
  2. 天皇主義(天皇は、日本の歴史的連続性、文化 的同一性の唯一の象徴である。)
  3. 暴力是認(軍人精神の滋養・涵養、軍事知識の 錬磨、軍事技術の体得。)

(おわり)

日本不動産ジャーナリスト会議(REJA)

 
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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