「楯の会」創設者の畏友・持丸(松浦)博くんを偲ぶ(1)
――三島由紀夫に最も信頼され、惜しまれた「国士」
「持丸くんが三島由紀夫らとともに軍事訓練した自衛隊の富士演習場から、自生していたムラサキ草を1本摘んできたよ」と、彼に話しかけたのは、いつのことだったろう――。25、6年前の平成に入ったばかり、バブル崩壊時の頃だったろうか。ボクが新聞記者時代、視察した折に、一本だけを記念に摘み取ってきた。彼は、「大昔は、むさし野の野にいっぱい咲いていた花だよ」といって、思わず五七調で口ずさんだ。
むらさきの ひともと故に むさし野の
花は見ながら あはれとぞみる
(注:古今和歌集・詠み人知らず)
この白い可憐なひともと(一輪)の花のごとく、ひともと故(ゆえ)に、彼は静かに散っていってしまった。
むらさきのひともと故に・・・花と散る
「楯の会」を、三島由紀夫と2人で創設した初代学生長の持丸博くんが、平成25年9月24日、柏の国立癌センターで息を引き取った。持病の糖尿病のところに食道癌となり、オペして取り除いたら肺炎を併発して15カ月もの入院生活で、歩くことも、食べることも、話すこともできないという過酷な闘病生活を余儀なくされた。最後はリンパにも癌が転移してしまい、臨終の言葉もなく寂しく逝った。
ボクと持丸くんとの関係は、水戸一高のクラスメート。もともと水戸学のナショナリストで、早稲田大学に入ると学園紛争に巻き込まれ、新左翼の「全共闘」に対抗して、民族派の反共学生組織を結成。左翼学生と同様、ハネ上がり分子の多い右派学生運動の中では、まれにみる冷静な理論派リーダーとして活躍する。三島由紀夫と出会い、同じ憂国思想で意気投合し、昭和43年3月、2人で「楯の会」を創設、初代学生長として第1期生30数名を面接・選抜した。44年10月、カネや組織上の問題で板挟みとなり、やむなく脱会するまで、春夏4期生100名ほどを面接・選抜し、自衛隊富士学校に体験入隊させ、軍事訓練をする。
その1年後の昭和45年11月25日、三島由紀夫が、森田必勝(持丸くんが面接採用した第1期生で、彼の後を継いだ2代目学生長)ら楯の会4名の学生とともに突如、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地(現防衛庁)に乱入し、三島、森田の2人が壮絶な割腹自決した。この「三島事件」に、高度成長に浮かれていた日本中が驚愕。とりわけ、ノーベル賞候補の大作家として頂点を極めていた三島の割腹死が、日本の社会と人々に与えたインパクトは計り知れず、今もってその評価をめぐって、あーだこーだと定まっていないことでもわかろうというもの。
持丸くんが脱会した1年後のこの衝撃的な事件に対して、彼自身、「あの事件の衝撃が余りにも大きく、その後の30数年間は、ほとんど金縛りにあったような状態が続き、とりわけボクが面接した後任学生長の森田必勝が、三島先生と一緒に自決したことは、長い間ボクの心の澱となっている。ボク自身が今もって、あの三島事件の持つ意味を未だに総括できていない」というほどだ。
彼は事件後、裁判等の事後処理にあたり、事件に関係した同志たちの面倒を見て、地下鉄工事など何でもやって裁判費用の足しにしたが、「西武の堤清二(平成25年11月25日に死亡。なぜか三島の祥月命日と同じ日だった。三島との親交から楯の会の制服を製作・贈呈していた)さんから、当時月10万円という多額の支援を受けて大変有難かったなあ」と、意外な述懐をしていた。一方では、土浦に設立した建築リフォーム会社が倒産したり、松浦芳子夫人との間での苦難が続き、以来なぜか「松浦姓」を最後まで名乗っていた。しかし、晩年は、「彼女もボクの考えをようやく支持してくれたよ」と喜んでいた。
【写真説明】
平成25年11月17日、茨城県土浦市のホテルで行われた「持丸博(松浦博)大人命五十日祭、及び偲ぶ会」の祭壇に飾られた①持丸博くんの遺影と、②「楯の会」の血の署名の血判状、③「楯の会」の彼の制服・制帽
長い沈黙を破って語った「三島事件」の真相
晩年といえば、彼が65歳を過ぎた平成22年の秋、彼から一冊の本『<証言>三島由紀夫・福田恆存たった一度の対決』(持丸博・佐藤松男共著、文芸春秋社刊)が贈られてきた。「これまでボクは、あの三島事件の衝撃が余りも大きかったことなど多くの理由から、あの事件に関しての公式な発言はせずに、長く沈黙してきた。還暦を迎えたころからその心境が変化し、楯の会を創ったものとして、自分がかかわってきた事実については、正しく後世に残さなければならないと考え直し、とにかく生きているうちに書かなくてはと思い、この本に残した」と、そのいきさつを語っていた。
その通り、その著書で彼は、高校時代から彼の思想の原点となった水戸学を語り、三島事件前後の時代背景から、「楯の会」を脱会した理由、三島事件前後の真相に迫り、「天皇の問題」、「戦後体制の問題」、さらには、二・二六事件をめぐる三島との評価の決定的違い等々、これまでの長い沈黙の堰を一挙に破り、人生観、歴史観、世界観を縦横無尽に語っている。あとがきの最後に彼は、「それにしても三島由紀夫は、なにゆえこうも死に急いだのか。三島の死、そのこと自体は、いまだに多くの謎を残して、40年後のわれわれの前に立ちはだかっている」と、結んでいる。
「文芸春秋」には、『日本』の将来予言の一文
また、同じころ彼は、三島由紀夫が死の4カ月前に書かれた将来予言『私の中の25年』(「このまま行ったら『日本』はなくなってしまうのではないか、という感を日増しに深くする。日本はなくなり、無機的な、空っぽな、中間色の、富裕な、抜け目ない経済的大国が極東の一角に残るのであろう――」)を取り上げて、「月刊文芸春秋」平成22年8月号特別企画「的中した予言50」に、一文を寄稿している。その中で、彼は、「世の中がますます「カネ」と「ゲーム」と「利己主義」に落ちて行く様子を見るにつけ、40年前、三島由紀夫の放った予言の矢は的を射抜いて、はるか彼方に飛んで行ったようです」と述べている。
彼の最後の筆となったのは、その翌年の23年、東日本大震災の被災地・石巻市で石巻魚市場の社長をしている同期生の須能邦雄くんが生き延びたのを慰問・激励のため、われわれから集めた義援金を代表して持参しての訪問記『被災地石巻を訪ねて』。母校・水戸一高の同窓会機関誌「知道会報」に掲載したもので、震災直後の廃墟となった石巻漁港の復旧・復興に全力を尽くしている「生かされた者」須能くんの奮闘ぶりを、熱っぽくレポートしていた。
ここら辺までが、彼の元気な姿だった。<証言・三島由紀夫>を出版した後は、エネルギーを消耗しきったかのように、持病の糖尿病が日増しに悪化、目の手術も2回ほどして弱り、衰えていった。翌24年の6月、柏の癌センターに入院する直前、治療のための「住所移転のお知らせ」ハガキが彼から届いた。「小生、体調すぐれず、7月から当分入院し、加療を続けます」と自筆で書いてあったので、これはやばいなと直感的に思い、すぐ電話を入れて励ましたところ、「糖尿なので、長い闘いが続くと、覚悟しているよ」と、大分弱い声になっていた。これが彼との最後の会話になってしまった。
松浦芳子夫人との間にできた長男の松浦威明(たけあき。三島由紀夫から本名・公威の1字を、生まれる前に持丸くんがもらっていた)さんに対しては、「父は手術室に入る前に、この日本にどうしても残さなければならないものがある。それにはあと5年かかるから、あと5年は生きたい」といったのが、親子の最後の会話だったそうだ。なお、松浦威明さんは三島事件の翌年(昭和46年5月)生まれの42歳。長身で紅顔の美青年。平成25年6月23日の東京都議会選挙では、日本維新の会から北多摩3区(調布市、狛江市)で初立候補し、落選した。
(つづく)
日本不動産ジャーナリスト会議(REJA)
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