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戦後81年・最大の事件「上智大学紛争」の記憶

学生の「バリケード封鎖」と大学の「機動隊導入」

「戦後81年」の年が明けた―――。世界は今、再び「疾風怒濤の時代」(シュトウルム・ウント・ドラング)に入った。昔の古い記憶・記録をたどり、過去から現在を学ぼうとするには、ちょうど良い時期であろう。折しも、わが上智大学のキャンパスでも昨年(2025)7月から9月まで「戦後80年企画展示、上智大生の戦前・戦中・戦後」が中央図書館で開かれた。同年10月21日には、1943年(昭和18)の「出陣学徒壮行会」の日に合わせた「上智大学戦没者祈りの集い」が聖イグナチオ教会マリア聖堂で10年ぶりに開催。70名に上る上智大学学徒兵の戦没者への祈りを捧げ、平和を祈願した。

(1)戦前には大学存立の危機「靖国神社参拝事件」

そして今、改めて上智大学の過去を振り返ってみて、しみじみ強く思うことが2つある。1つは、1941年(昭和16)の太平洋戦争が始まる前までの「戦前」に、上智大学の存立自体を危うくした極めて重大な事件「靖国神社参拝事件」を詳細に知り、学んだこと。

事件は1932年(昭和7)、名にし負う「5.15事件」の10日前の5月5日に起きた。「上智大学の配属将校が、予科2年生60名を靖国神社に引率した際、カトリック信者の学生数名が信仰を理由に敬礼をしなかった。(実際どうであったかは議論がある。)これを問題視した陸軍省は上智からの将校引き揚げを図った。配属将校の引き揚げは「愛国心に反する大学」という烙印を押されるに等しく、中退者が続出し、志願者も激減した。」(「戦後80年企画展示、上智大生の戦前・戦中・戦後」での説明文)とある。これが事件の概略である。

1932年と言えば、3月1日に「満州国」の建国宣言をした年で、5月15日には犬養毅首相らが暗殺され、世の中は世界恐慌の真っただ中。失業者は増大し、農村は疲弊し、社会不安が深刻化していた時期。それ以降は「国際連盟脱退」(1933年)「2.26事件」(1936年)「盧溝橋事件(日中戦争)」(1937年)「日独伊三国同盟」(1940年)と軍部独走の重大事件が積み上がっていった。 

こうした視点からこの「靖国神社参拝事件」を見るに、戦争はある日ある時いきなり起きるものではなく、1941年の太平洋戦争開始までには、「靖国神社参拝事件」以来からでも、数々の事件を経て9年もの年月を要していたことが読み取れる。

(2)「戦後80年」展示で欠落していた戦後史の事件

2つ目は、「戦後」についてである。これも昨年夏の「戦後80年企画展示、上智大生の戦前・戦中・戦後」を観てのことだが終了後、何かもの足りないものを強く感じた。そのもの足りなさとは、戦後80年企画展示には「戦後」の重大事件が展示されていなかったことであった。一緒に観た先輩の畏友・向山さんから「戦後が展示されていませんね」と奇しくも指摘されてもいた。

上智大生にとっての戦後史の重大事件とは、間違いなく1968年(昭和43)の「上智大学紛争」であろう。当時、筆者は大学を卒業したばかりの新社会人・新聞記者1年生。しかし、その事件の学生の主役である全共闘のリーダー2人は、4年間同じ新聞学科のクラスメートで特に親しい仲間である。それが何と大学に残り、バリケード封鎖を指揮しているではないか(退学処分)。しかも今、その2人とも傘寿の年齢でなお元気で生きているのである。とても活字にするには職業柄とはいえ、重たい気分で筆が進まない。事件の歴史が浅く、生存者がぞろぞろいるうちは、なかなか事件の“総括”はしにくいものである。

しかし、最近になって、いろいろ学内外から事件の新しい情報が寄せられたり、これまで知らされていなかった話を聞かされたりする中で、あの殺伐した大学紛争の中にも、ホッとした2、3の美談(?)のようなものがあったことを知り、それを記録にとどめておくことも悪くはないのではと思い直し、筆者のパソコンを走らせることにした。

(3)殺伐とした「上智大学紛争」の中にも、3つの美談(?)

上智大における学生によるバリケード封鎖から、大学による機動隊導入と封鎖解除・ロックアウトまでの大学紛争を要約すると――。

1968年11月7日の夜、全共闘学生約180名がヘルメット、角材で武装し、1号館と3、4号館に突入しバリケード封鎖をした。これに対し、学生会や多くの一般学生がバリケード解除を求めて立ち上がり全共闘学生と衝突、ケガ人が出る深刻な事態となった。このため、ピタウ理事長は自主解除を断念、12月21日午前6時過ぎやむにやまれず警視庁に、機動隊の導入を要請した。

● 第1の美談(?)
立場の違うピタウ理事長と佐々警視庁課長とがケガ人を出さないようにと、キメ細かな気付きと配慮をした。

その際、ピタウ理事長は「全共闘学生と機動隊員の双方にケガ人が出ないよう」強く要請した。この要請を受けた警視庁警備第1課長の佐々淳行氏(その後の「東大安田講堂事件」「あさま山荘事件」処理の指揮を執ったのはあまりにも有名)は、「わかりました」と即座に言って応じ、「血気盛んな若手の機動隊員を排し、なるべく子供のいる35歳以上、性格のおとなしい隊員を選んで出動させた」(枝川葉子マスコミ・ソフィア会事務局長)という。

枝川さん(1972外独卒)はこの時大学1年生だったが、この話は、イタリアに帰っていたピタウ先生が2004年春、再び日本に戻ってきてから直接たびたび聞かされていたそうだ。なんという麗しい会話だったことか。(なお、このくだりは、「サンデー毎日」2018年3月25日号「大学同窓会の研究、上智大学ソフィア会編の下」の「ピタウ元理事長の精神は永遠に”困っている人を助けよ“」にも掲載)

(4)機動隊の導入で占拠学生を排除、封鎖が解除

機動隊の導入は、12月21日「夜が白々と明けたばかりの午前6時半、守屋学長を先頭に教授陣がまず裏門から学内に入り、『諸君、やむを得ず警官隊を導入します。直ちに退去して下さい』とメガホンで、校舎占拠中の学生に呼びかけた。続いて機動隊がどっと学生を取り囲み、たちまち学外へ引きずり出した。機動隊は全共闘が占拠している1、3、4号館へ殺到。表門からも機動隊と警備車が突入、7時半、各隊に催涙ガス弾発射が指令され、学生からの投石も散発的になった。機動隊は学生を1号館の一室に追いつめ、つぎつぎと逮捕。約30分にわたる攻防戦が終わった。」などと、読売新聞が12月21日付夕刊社会面トップで報じている。

● 第2の美談(?)
<占拠学生の証言>1号館4階に立てこもったボクらは全員、上智大生だけでした。これには逮捕した警察も驚いていた。

当時、日大紛争や東大時計台闘争にみられる通り、占拠学生は皆、外部の過激派セクト学生が入り混じっているとみられていた。筆者でさえ、この証言を聞くまではそのように思っていた。しかし、1号館4階に最後まで立てこもった占拠学生30数名を全員逮捕したら、外部の活動家学生は一人もいなかったことが証明できたことに、ホッとした。これも凄惨な内ゲバの殺し合いが横行していた他大学とは違って、上智大学紛争の大きな特異点であろう。

この日(21日)で学生による45日間のバリケード封鎖が解除され、大学紛争は終結した。以後は大学によるロックアウトとなり、1969年4月7日の入学式後まで108日間(約3カ月半)の封鎖が続き、大学は一応、元の平静さを取り戻した。この間、ロックアウトの異様な光景の学内で、入学試験も卒業式も行われたことも、記憶にとどめておきたい。

(5)2人の主役が38年ぶりの再会

それから38年後の2006年5月、ピタウ神父がバチカンでの勤務を終え日本に戻って来るや、枝川さんに「佐々氏にお会いして、お礼を言いたい」との話。枝川さんは早速佐々氏に連絡して6月5日、ホテルニューオータニの「大観苑」での昼食会による2人の再会が実現した。陪席は神田警察署の上智OBの武田史郎警視、学生会会長だった和泉法夫氏、ピタウ神父秘書の大隅恵子さんと枝川さんら。

● 第3の美談(これは確実に美談と言えよう)
大学と警察という互いに異質の世界ながら、それぞれに立派な教育者・指導者がいたことの証明が、この日の再会。

この日の再会の模様を、佐々氏は2006年の雑誌「諸君」への寄稿文『ドロまみれの神父が学園の嵐を鎮めた』の中で書き、「日本全国で荒れ狂った大学紛争の嵐の中、最初に機動隊導入による学園正常化を断行したのは一人の神父だった。ヨーゼフ・ピタウ現・大司教。ハーバード大で政治学博士号を取ったキリスト者が上智大学理事長として、全共闘と静かに対峙する姿に、ホンモノの全人格教育を見た。」と激賞している。

(2026年1月掲載)

掲載:マスコミ・ソフィア会の会報「コムソフィア」89号
(2026年1月10日発行)

 
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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