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江戸の歌舞伎俳優を思わせる好漢の士・近藤さんを偲ぶ

2024年の正月早々、近藤さんの追悼文集を作るからと言われても、ボクはその時、病院のICU(集中治療室)のベッドで、身動きとれずに悶々としていた。
というわけで、近藤さんの追悼文を書く前に、ボクがあわや追悼される寸前までいった命拾いの前書きから、お許しください。

1月4日の夕方、突然強烈に胸が締め付けられ、のたうち回った。「ヤバイ、また来たな、命が危ない」―――と、瞬時に家内に「救急車を早く!」と叫び、意識が薄れていった。正真正銘の急性心筋梗塞の発作。10年前に心臓血管に埋め込んだステント(ステンレスの金属ネットの円筒形)の開口部が100%、血栓で塞がってしまっていた。もし、家内が自宅に居なかったら、もし、病院に運ばれる時間がもう少し遅れていたら、それはあの世・天国への近道だった。まさに時間が勝負の心筋梗塞。恐ろしい病気だが、どうやら、今度も悪運強く、うまく乗り切った―――。

以上が、1月1日の「能登半島大震災」、2日の「日航機の衝突炎上事故」に続く、4日のボク個人の生々しい近況報告です。運よく生き延びる人もいれば、アッという間になくなってしまう人もいる。そうした人生の”ああ無常”は、いかんともしがたいものがある。わが友、好漢の士の近藤さんの死も、本当にアッという間に、桜の花が散るように散っていってしまった。まさに「年年歳歳花相似、歳歳年年人不同」だし、人生は「空の空、いっさいが空」(旧約聖書「伝道者の書」1:2)であろうか。

近藤さんが亡くなった肺ガンの病気は、4種類ある肺ガンの病気の中でも、最も恐ろしい「小細胞肺ガン」という種類のもの。患者が病名をはじめて知らされてから「早くて3カ月、長くて半年の寿命」と言われている。ボクの長い人生の中で、この種の病死に出会った人は、これまで2人いた。1人は、仕事仲間の親友で、もう一人は義兄だった。いずれも3カ月と持たなかった。特に義兄は告知されてから2カ月の命で、苦しみながら終活の準備をしている暇もなかった。

3人目の近藤さんは、昨年の3月に築地の癌研に入院し、小細胞肺ガンと診断されたそうで、告知から亡くなるまでちょうど半年の短い命となってしまった。奥さまによると、「病気のことはだれにも言うな、死に顔は見せるな」と言っていたそうで、誠に彼らしい男の美学を貫いたあっぱれな最後だった。この間、6回も癌研への入・退院の繰り返し、そのあと聖路加国際病院に転院し、想像を絶する病魔との闘いに苦しんだことだろう。最後は自宅で1週間過ごすことができたのが、せめてもの慰みで、本当に良かった。

近藤さんとは、昭和末期の不動産バブル景気以前からの古い付き合いで、年齢もボクより3カ月遅い同学年生なので、気心もよくお互いに知れていた。最初の出会いからお洒落で背も高く、無口なところにきて、ボソボソと低音で話し出すところなど、江戸の歌舞伎役者を思わせるような雰囲気を醸し出していたのが、とても印象的だった。

彼との思い出は、ボクが30代の現役の新聞記者時代から。立場が全く違っていても、いがみ合うようなことは一切なく皆、楽しいことばかりだった。バブル時、彼の会社のオーナー社長の御曹司後継役員が、シャガールの絵の収集に浮かれているのにあきれて、水戸にいたボクの高校時代のクラスメートの同社社員が ”ヤル気がなくなる”と腹を立て「俺の名前を出してもいいから、御曹司のシャガール狂いを、近藤さんに伝えて、何とか諫めてくれないか」というので、当時会社のスポークスマンだった近藤さんにそのことをそっくり伝えたら、近藤さんは一瞬困った顔の真剣な表情をみせながらも、苦笑いをしたまま何も答えなかった。ボクとの関係で緊張したことといえば、その程度の話だけだった。

その後、ボクがライオンズマンションの大京に転職していた時には、近藤さんが住んでいた浜町のライオンズマンションでは、大変な迷惑をかけてしまった。その時、管理組合の役員をしていた近藤さんがいたからこそ、ボクも根回しができ、なんとか危機を脱することができたのも、忘れられない事件だ。当時、マンションの耐震偽装問題で、国会でも大きな問題に発展していて、大京もマンション全調査をしたら、そのマンションの耐震不足が判明し、近藤さん宅はじめ居住者を一時移転させての修復再生工事を、無償でさせてもらった。近藤さんには本当に大変な大汗をかかせてしまった。

彼とはこうして現役時代も含め、その後の定年退社してからの「オフィスルポ」の出版業を立ち上げ、長期にわたる文集「サロン・ド・ムッシュ」の会の発行世話役をしていただいた今日まで、お付き合いは絶えることなく、特にボクが担当している「不動産ジャーナリスト会議」の機関誌や特集号の印刷では、商売抜きの価格で大変お世話になりっぱなしのまま、訃報となってしまった。

サロンド・ムッシュ新年会 2020年1月9日

彼が亡くなって5カ月目の老境に達した今、静かに彼を思うと、彼の最後の散り際の姿勢がなんと見事で立派なことだったろうと、しみじみ彼に教えられている。奥さまによると「闘病生活中も弱音を吐かずに頑張っていた」そうで、とてもつらい病気だったにもかかわらず、その現実をあるがままの自然体として、冷静に受け止めていた彼の姿が大きく浮かび上がってくる。これは、とてもとても並みの人間ではできないことだと思う。

「裏を見せ 表を見せて 散るもみじ」(良寛の辞世の句ともいわれている)

(2024年3月掲載)

掲載:「サロン・ド・ムッシュ」近藤嘉彦さん追悼特別号、2024年3月

 
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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