~~東京郊外のわが町・東大和市の自慢2つ~~ 「戦災変電所」と「多摩湖周囲の狭山丘陵」トトロの森
「東大和市」がどこにあるのか、知らない人が多い。郵便物でも、よく間違えられる。「神奈川県東大和市」あるいは「神奈川県大和市」とか、「東京都大和市」とか、違って書いてあっても、たとえ郵便番号が書いてなくても、自宅にはすべて届く。正解は「東京都東大和市」。多摩地区の中心都市・立川市の北隣りにあって、北は西武ドームで有名な埼玉県所沢市と接している。東隣りの東村山市はもっと有名で、志村けんの出身地として全国的に知られ、東村山駅前には等身大の彼の銅像が立ったばかりで、お得意の「アイーン」のポーズで迎えてくれる。それだけに、わが「東大和市」は知名度が低く、周囲に沈没してしまっているようだ。しかし、何の特徴もないような都市郊外のその一角に住みついてみて、その良さを知るにつれ、”新しい古里”の自慢話を紹介したくなった。
現役時代の後半は都心の渋谷と、ここ東大和市(農地も多く、多摩湖一帯を領有する人口8万余の小さなベッドタウンの町)との2地域居住をしてきたが、渋谷のマンションを売り払い、コロナ時代となったこの2年半は、都心に出かけることも少なく、どっぷりと地元に閉じこもる毎日。市の都市計画審議会の委員も長らくやっていることだしとばかりに、狭い市内の”ぶらぶら探索”に明け暮れている。
そこで見つかったすごい宝物が2つ。1つは、世界に誇れる歴史的文化遺産
で、「西の原爆ドーム、東の戦災変電所」といっても決しておかしくはない「旧日立航空機立川工場の変電所」。もう1つは、これも世界に誇れる自然遺産。イギリス北部の世界的に有名なロマン派詩人ウィリアム・ワーズワースやピーターラビットの古里である「湖水地方(レイクランド)」とそっくり似の「多摩湖と、その周囲一帯の狭山丘陵」の”緑のオアシス”だ。縄文時代から続く里山を色濃く残し、”トトロの森”の風景が一面に広がる。事実、多摩丘陵南面には市内でも2カ所、トトロの森として保全もされている。
(1)『西の原爆ドーム、東の変電所』といわれる 「戦災変電所」
「東大和市」の「戦災変電所」の地図
前者の文化遺産「旧日立航空機立川工場の変電所」の建造物は、多摩モノレールと西武拝島線とが交差する「玉川上水」駅徒歩5分の都立公園「東大和南公園」内にある。建物の壁面には、月のクレーターのような弾痕の穴が無数に。今なお空襲による弾痕300カ所もの痕跡を、生々しく伝えている。敗戦末期の1945(昭和20)年の春、米軍の3度にわたる激しい空襲で、壊滅的な打撃を受けた。動員されていた学生も含め、戦死者111人の尊い命が一瞬にして奪われた。
「NO WAR」のウクライナ侵攻反対の横断幕を掲げた「旧日立航空機立川工場の戦災変電所」
この工場は、軍用飛行機の心臓部のエンジン工場だったため、工場内のすべての設備が破壊される中、別棟の変電所だけが弾痕の穴だらけとなっても、奇跡的に生き残った。生き残っただけでなく戦後、平和産業の機械工場に転換してもなお、現役として電気を送り続けた。1993(平成5)年の平成の世まで操業していたというから、驚きである。
それだけに、この戦災変電所は今なお当時の攻撃のすさまじさを伝えてあまりあり、あの無謀な戦争の恐ろしさ、悲惨さ、平和の大切さを、無言で切々と訴え続けている。まさに東京の、いや東日本の「平和のシンボル」として、「西の原爆ドーム」に匹敵する。
東大和市では、1年がかりの保存改修工事を、全国からのふるさと納税寄付金で完了させ、2021年10月から一般公開を再開、毎週水曜日と日曜日に無料公開し、市の内外から多くの人が見学に訪れている。2022年の2月24日、ロシアがウクライナに侵攻してすぐ、侵略停止の平和のメッセージを市議会でも決議し、この変電所に、「NO WAR」の戦争反対の横断幕を掲げている。
(2)「多摩湖・狭山丘陵」は、『ピーターラビット』のイギリス「湖水地方」とそっくり
もう1つの東大和市の自慢の宝物は、自然遺産「多摩湖と、その周囲一帯の狭山丘陵」の”緑のオアシス”。それが、イギリス北部の美しいレイクランド「湖水地方」(レイク・ディストリクト国立公園)に、あまりにも似ている。しかも、現在の狭山丘陵は、「湖水地方」ほどには美しく保全されておらず、開発可能余地を数多く残しているだけに、これからの自然環境の開発投資の保全整備しだいでは、さらに一段と美しさを磨き上げられる大きな将来魅力を秘めている。
「湖水地方」をこよなく愛したロマン派詩人ウイリアム・ワーズワイスの家と庭園
筆者がピーターラビットの古里であり、その作者のビアトリクス・ポター
(1866~1943)の「ナショナル・トラスト」運動の最初の活動地でもある「湖水地方」を訪れたのが、今から7年前の2015(平成27)年。ちょうど、その6月15日には「マグナカルタ」(1215年、憲法史の草分けとなった英国の大憲章。1776年の米国独立宣言文に大きな影響を与えた)制定「800年記念セレモニー」のバッキンガム宮殿への一大パレードがあり、それを合わせて見学しようと押しかけた。
「湖水地方」は、ビートルズ発祥の地のリバプールから、クルマで1時間ほど北に入ったところにある。ポターはここを舞台にしたウサギの絵本『ピーターラビットのおはなし』を1902年に出版し、売れに売れて瞬く間にベストセラーに。その印税収入の資金を、環境保全の「ナショナル・トラスト」運動に賛同して寄付。そのおカネで「湖水地方」の土地を次から次へと買い増していき、1,700ヘクタールも購入した。
時あたかもイギリスでは産業革命の成熟期にあり、工業都市のマンチェスターやリバプールからはそれほど遠くないところにある「湖水地方」の土地にも、工業用地として買われようとしていた。しかし、ポターの資金による「ナショナル・トラスト」運動のおかげでなんとか食い止められ、「湖水地方」の緑豊かな土地と湖水が、開発業者の開発から守られた。1907年には「ナショナル・トラスト法」が制定され、「譲渡不能」となる土地権利が制定され、全体の環境が保全された。
(3)狭山丘陵に『トトロの森』誕生。環境保全「ナショナル・トラスト」運動の波が
東大和市の狭山丘陵「多摩湖自転車・歩行者道」脇にある「トトロの森」の雑木林
こうした「ナショナル・トラスト」運動の波が日本にも波及。狭山丘陵においては、アニメ映画「となりのトトロ」の舞台とされてからは『トトロの森』を誕生させようとして公益財団法人がつくられ、狭山丘陵での「ナショナル・トラスト」運動が始まった。
東大和市の狭山丘陵南面においては10年前、墓地の開発計画が明るみに出て、
反対運動によってこれを阻止、幸いその土地を『トトロの森』として購入でき、貴重な雑木林の環境が保全されている。
「多摩湖」のシンボルの2つの取水塔。「西武ドーム」の屋根が、奥の狭山丘陵の森の間から顔を出している。
東大和市としても、狭山丘陵の森林、雑木林、竹やぶの緑地保全に注力してきた。狭山丘陵の中にある多摩湖(村山貯水池)は人工湖で、今から95年前の1927(昭和2)年、当時の狭山村を水没させ、堰堤で仕切って造られた。今も東京の水ガメとして現役で活躍。湖上に浮かぶ西欧風のカラフルなドーム屋根・アーチ窓の取水塔は、東京都の「歴史的建造物」に選ばれ、その美しい姿を湖面に映させている。
さらに、この神秘的な多摩湖を眺めながら1周できる「多摩湖周遊自転車・歩行者道」ができあがっており、サイクリングはもちろん、マラソン、ジョギング、ウオーキング、散策を楽しむには絶好の緑の周回コースがある。眺めもよく、程よく日頃の疲れをいやしてくれる。道中にはトトロの森や市立の「狭山緑地」があって、木道沿いの木の実拾いやフィールドアスレチックで、子供連れで遊ぶこともできる。
また、緑道から坂下の民家に続く斜面は、里山の美しさも残っていて、野草の観察やバードウオッチングには最適の場所で、郷愁にかられる。まるでイギリスの「湖水地方」を想い出させるような風景が続く。しかし、これだけでは終わらずに、この周回コースの「多摩湖周遊自転車・歩行者道」は、なんと驚くなかれ、東大和市の多摩湖を起点として、隣りの東村山市→小平市→西東京市のはずれまで3市をまたぎ、全長21.9キロメートルが一直線でつながっている。終点は武蔵野市の「井ノ頭通り」と合流している。起点を逆の武蔵野市の「井ノ頭通り」からすれば、サイクリングであっという間に、多摩湖に通じてしまう。
「多摩湖、狭山丘陵、トトロの森、バンザ~イ!!」。
● 「旧日立航空機立川工場の戦災変電所」関連 ●
重要航空遺産「一式双発高等練習機」が立川で一般公開!
―――十和田湖から引き揚げた唯一残る現物機―――
日本の太平洋戦争期の陸軍機「一式双発高等練習機」の話を一席。去る2021(令和3)年11月25日から4日間、JR立川駅北口徒歩10分の立飛ホールディングス(旧社名・立川飛行機)の工場内で、戦前の陸軍機「一式双発高等練習機」が、東京で初の一般公開のお目見えをした。
老若の戦闘機ファンが大勢押しかけ、連日長蛇の列だった。そんなところに門外漢の筆者が押しかけたのは、その陸軍機のエンジンが戦前、東大和市内にあった「旧日立航空機立川工場」で作られていた可能性があり、それを確認したかったから。結果は案の定、そうだった。練習機だけにエンジンは貧弱で一層しかなかった。
一般公開された「一式双発高等練習機」の中に見入る見学者
この練習機がなぜ、それほどの人気を呼んでいるのか―――。一つには、青森県の十和田湖に墜落していたのを、1度目は引き揚げに失敗し、2度目の挑戦でようやく引き揚げに成功したから。二つには、それと関連するのだが、戦時中の戦闘機は敗戦時に、占領された米軍によって一機残らずきれいさっぱり破壊されてしまい、戦後は一機も遺産として残されていないから。(多分に米軍は、日本人が残存戦闘機に乗って、ゲリラ的に神風特攻隊精神で襲ってきやしないかと恐れていたからであろう。実際、そういう動きはあったかもしれないが、すべては占領米軍の資料に頼るしかないので、確かめようはない。)
この練習機「キ(Ki)―54」は、1939(昭和14)年3月、陸軍から多目的双発高等練習機の試作指示があった。当時の立川飛行機にとっては初の双発、全金属製で、引っ込み脚の機体を制作した。操縦訓練だけでなく、航法、通信、射撃、写真撮影などの機上作業全般に使用される練習機として開発されただけに、エンジンの信頼性が高く、機体の耐久性にも優れ、機内も広いスペースが確保されているなど、使い勝手に優れている傑作機だったという。生産は1940年から1945年までの期間で、1,342機がつくられた。
戦争当時、「一式双発高等練習機」の前に整列する若き搭乗員
一機もないはずの飛行機が、どうして出てきたのか。それは、太平洋戦争の最中であった1943(昭和18)年9月、秋田県の能代飛行場から飛び立って、青森県八戸市の飛行場に向かったこの陸軍機が、エンジントラブルで十和田湖に墜落してしまった。4人の少年飛行士のうち、1人が助けられ、3人が死亡。
以来、今から10年前の2012(平成24)年9月に、十和田湖の水深57メートルに沈んでいた練習機は、ボロボロになっていたとはいえ、真っ赤な日の丸の紋章も色鮮やかのまま全体の雄姿を見せて、69年ぶりに引き上げられた。しばらく青森県立の三沢航空科学館に展示されていたものを、2020(令和2)年、製造元の立飛ホールディングスが譲り受け、唯一の現物機の展示として今回の一般公開となった。
なお、同機は、2016年に「重要航空遺産」に認定された。
(2022.10掲載)
掲載:機関誌「マンション防災の眼」第9号 2022/10/31
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