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この眼で見た!!「アボリジニ」の居留区
~~西側諸国も人権侵害のスネに傷~~

前回、この欄で、「中国の朝鮮族がなくなる危機」と題し、吉林省「延辺自治州」での「延辺朝鮮族」の迫害問題を書いて、私のホームページに転載したところ、意外なところから反響があり、驚いた。そこで、延辺朝鮮族出身の元中国人留学生の居所を探ろうとしたが、行方不明なので、もう一人の同じ出身の中国人留学生にも聞いたが、知らないということだった。続編を書くつもりでいたが、今回は止めて、西側民主主義諸国の過去の「先住民根絶政策」と、その一つ、オーストラリアの先住民族のアボリジニ迫害問題、さらには環大西洋の大規模奴隷貿易問題についても、触れていくことにした。

共産中国の「強制収容所」収監等のむごい弾圧政策と比べて、西側民主主義諸国の先住民族に対する弾圧のこれまでの歴史を見てみると、ご承知のとおりアメリカ、カナダの北米大陸でのインディアン迫害、古くはスペインの南米大陸インカ帝国への侵略・略奪による先住民インディオ虐殺などにみられる人権侵害の残酷さ、非人道さは、現在の中国とあまり大差はなく、西側諸国も皆、スネに傷を持っている。

特に、早くは1501年から19世紀の産業革命期までをピークに、アフリカ黒人奴隷を大量に捕獲し、奴隷船で中南米カリブ海諸島に強制移送して、西側各国に奴隷として重労働させるという「環大西洋奴隷貿易」の傷跡は、『アメイジング・グレイス』(作詞のジョン・ニュートンは元奴隷船の船長で、教会の牧師となって奴隷貿易廃止運動に尽力)の讃美歌などではとても癒されないほど深く、今日までも世界各国で、現代の差別問題として尾を引いている。

「環大西洋奴隷貿易」の恐るべき実態

「環大西洋奴隷貿易」の特徴は、なんといってもその規模の大きさで、しかも長く続いたことだ。コロンブスの西インド諸島発見(1492年)後まもない1501年に始まり、リンカーンの黒人奴隷解放宣言(1863年)後の憲法制定で決めた1867年までの360余年間も継続した。

この間、①捕獲されたアフリカ黒人奴隷の総数は、1,430万人、②うち強制移送された奴隷の総数=1,250万人、➂航海中の死亡者=180万人、④新世界到着後1年以内の死亡者=150万人、⑤生き延びた黒人奴隷労働者数=920万人――という驚くべき黒人奴隷の総数が、3週間から3カ月かけて大西洋を横断していった。その黒人奴隷を奴隷船に乗せて、奴隷貿易を支配していたヨーロッパ諸国の国別輸送シェアは、イギリスの38%がトップで、以下、ポルトガル(34%)、フランス(18%)オランダ(5%)など、植民地を多く持つ当時の強国ばかりだ。

奴隷の主な到着地は、①西インド諸島(シェア50.6%)②ブラジル(35.7%)➂スペイン圏中南米諸国(6.6%)。④位の北米は3.6%の36万人で、1776年の米国13州独立宣言前後に急増している。独立宣言を起草したトーマス・ジェファーソン第3代大統領の有名な私邸(バージニア州シャーロッツビル)を湾岸戦争時に訪れたが、彼がすでに複写機を発明していたのには驚いたが、それ以上に驚いたのは、母屋から北側に地下通路があって、奴隷小屋、馬小屋が並んで通じていたことだ。周囲は広大な奴隷農園プランテーションの荘園に囲まれ、黒人の妾もいて、子どもをつくり、一緒に暮らしていたそうだ。

狩猟採集生活を捨てた「居留区」の実態

筆者が先住民族の迫害問題を、この眼でジカに見たのは、今から20年前の2000年前後のオーストラリア。2000年当時のオーストラリアは、シドニー・オリンピック大会が開催され、開会式のイベントでは、身体を黒く塗った白人男女が、会場いっぱいにアボリジニ踊りを披露するパフォーマンスをしていた記憶がある。そこでは、「民族と融和し、仲良くやっていますよ」との和解のPRメッセージを、盛んに送っていたように感じたが、しかし、これで過去のアボリジニ虐殺の歴史が清算されたとは、とても思えない。

先住民アボリジニは、海岸沿いのフェンスに囲まれた一角に、名目的には「保護」隔離されていた。そのアボリジニ「居留区」の入口には、「関係者以外は入るべからず」の掲示板が立っていたかとは思うが、案内人はそれを無視するがごとくスルスルと入っていく。筆者はなんの予備知識を持ってなかったので、思わず緊張して、クルマのドアを固く締めて入っていった。一瞬、クルマが焼き打ちされるのではと一抹の不安はあったが、さにあらず、アボリジニ居留区は静まり返っていて、まるで眠っているような薄気味悪い風景だった。

しばらく走ると、最初に眼に入ってきたのは、人影もない長く続く海岸へりを一人、トボトボと黒いハダカのひげの老人が歩いている姿だった。海辺の砂浜の崖寄りには、粗末なコンクリートブロックの家が点々と散在していて、その家の前では、老人たちが何をするのでもなく会話もなく、ポツーンと座っている。ゆったりとタバコをくゆらしている人もいれば、やおら立ち上がって細い木の棒を持って、どこへ行くのでもない様子で、元気なく歩き出す老人もいる。皆、のんびりとしている人ばかりで、何とも言えない光景だった。

居留区を出て、ホッとした。案内人に聞いたところでは、定住をせずに狩猟採集の生活を長らく営んできたアボリジニにとっては、居留区内に強制移住され、慣れない定住生活のお仕着せのコンクリート住宅に入れられては、とても住みづらくて耐えられないのだろう、という。なかには、木造でできている窓枠を壊して、タキギにしてしまっているそうだ。

居留区内での日常生活には、政府の保護政策によって困窮することはなく、何の心配もなく暮らせることが保証されているため、仕事をしないで、結構酒浸りになっている人もいて、缶ビール片手にフラフラと歩く姿も見られるという。子どもに対しても、一人産むたびに五人まで政府から養育の補助金が出るそうで、なかにはアボリジニの女性と結婚して子どもを五人産ませ、その手当で毎日遊び暮らす不届きものの白人男もいた、と聞かされた。しかし、こうした話は、今の話であって、ちょっと前の昔の祖父母の時代までは、奴隷的扱いで、絶えず行動が監視され、子どもが親から引き離されもした強制的な隔離政策も取られていたという。

(2022.3掲載)

掲載:会報「サロン・ド・ムッシュ」2022.1月、冬号

 
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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