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カンボジア、ミャンマーを視察して
〜急がれるインフラ整備〜

【カンボジア】

石澤上智大学前学長のご案内で

 あまり馴染みのなかったカンボジア、ミャンマーを、8月6日から13日まで、駆け足で見てきた。視察のきっかけは、母校・上智大学のカンボジア・アンコール遺跡群研究の第1人者である石澤良昭前学長との約束で、是非とも石澤先生の直接ご指導ご案内でのアンコール遺跡群を見てまわること。それがこの夏、上智大学100周年を期してのOB仲間だけの視察企画で実現した。
 石澤先生は上智大のフランス語学科卒。1961年の卒業時に、上智大OBの作家・井上ひさしの小説に出てくる有名な「モッキンポット師」神父に連れられて、初めてアンコールワットの大寺院を見てまわったら、すっかりそれに魅せられて、「ボクはここに残りたい」と言って居残ってしまった。以来50有余年という半世紀以上もの熱き想いをかけて先生は、東南アジア史、とりわけアンコールワット遺跡群の研究、発掘・保全・修復に携わり、「カンボジア人による、カンボジア人のための、カンボジア文化遺産の保存・修復」を実践し、現地に「アジア人材養成研究センター」と「アンコール文化遺産教育センター」を相次いで建設して、遺跡を守るカンボジア人の人材育成教育を率先指揮してきた。その長年にわたる功績が顕彰され、昨年11月には政府から叙勲をいただいた。
 76歳という喜寿を目前にして今もなお、全身全霊を投げ打ってアンコールに奉仕し、先生自らが現地で観光ガイドまでされて、修復のための石材購入や人材育成の費用を捻出されている献身的なお姿に接すると、全く頭の下がる思いである。それも今回は、カンボジアだけでなく、もう1つの仏教国である知られざるミャンマーまでも、われわれ一行をご案内してくださるというのである。
 さてさて、そんなわけで、まず世界遺産アンコールワット遺跡群のあるカンボジア中部の都市・シエムリアップに着く。ちなみに「シエム」とはシャム、今のタイのことで、「リアップ」とは「出ていけ! 帰れ!」という意味だそうで、つまり「タイ(人)は帰れ」という願いを込めた名前。中世時代、カンボジア(クメール)人による栄華を極めた「アンコール王朝」は、14世紀後半から強大な隣国・タイ「アユタヤ王朝」の猛攻にあって連戦連敗、以来フランスの植民地となる近代まで、タイとベトナムに支配され続けてきた歴史がある。

遥かなるアンコールワットへの道

 このシエムリアップは、アンコール遺跡群一帯を含めて、1975(昭和50)年、内戦に勝利して実権を握ったポル・ポト派に支配され、都市住民、知識人、専門家への大量大虐殺が始まった。ポル・ポト支配以前は60万人いたこの都市も、現在は3分の1の20万人しかいなくなってしまった、という。
当時、日本の若き26歳のカメラマン、一ノ瀬泰造(UPI通信社東京支局員)は、ベトナムからメコン川をさかのぼって、アンコールワットの門前町であるこのシエムリアップに腰を据え、ポル・ポト派の手中にあったアンコールワット一番乗りを夢見た。「地雷を踏んだら、サヨウナラ」と友人に言葉を書き送り、アンコールワットに向かったまま消息を絶ってしまった。これほどまでに、アンコールに続くこの道は、厳しく遥かなりであった。
 石澤先生は80年8月、まだ内戦が続く危険なこのアンコールに単独で入った。一人生き残ったカンボジア人の専門家から、「遺跡が破壊されている、助けて!」という手紙をもらったからである。そこで初めて先生は、西側のアンコール遺跡群専門家として調査をし、見る影もなく荒れ果てた、救済を待つ遺跡群についての詳しい報告を、カンボジア政府、ユネスコ等の国連の各機関におこなった。以来80年代に、石澤先生は、上智大学アンコール遺跡国際調査団長として10回以上も訪れ、91年からは遺跡を守るカンボジア人の保存官の人材育成にとりかかった。現場で実習してから上智大学大学院に留学生として迎え、現在までの遺跡研究の学位取得者は19名(博士6名、修士13名)にものぼり、中堅幹部、石工も60名ほど養成したという。

【写真1】アンコールワットの入口・西参道橋の修復工事を、上智大学が15年をかけて100メートル完成させた。

中世カンボジアの歴史を変える大発見

 圧巻は、10年後の2001年、研修中にアンコールワット近くのバンテアイ・クデイ寺院の地中から、274体もの仏像が出るという世界的大発見をしたことで、さらに3年前の2010年にもその近くの環濠脇から、6体の廃仏を発見・発掘し、仏教に帰依した王の死後、ヒンズー教の王が仏像狩りを行い、破壊・埋坑の大弾圧をしていたことが判明した。これは中世の栄華を極めたクメール人アンコール王朝の歴史を大きく塗り替えるものであった。現在、その274体の廃仏を展示した「シハヌーク・イオン博物館」が、イオン(株)の援助で現地に建設され、公開されている。
 われわれ石澤先生一行は、これらのすべてを視察し、石澤先生からの微に入り細にいった懇切丁寧な、しかもアカデミックな説明に食い入るように聞き入った。さらに、その発掘現場の周辺では、プノンペン王立大学等からの数名のカンボジア人学生さんたちが、8月の熱暑の中、研修生として汗も拭かずに発掘に携わっていたし、われわれも負けじと、その脇で発掘現場を掘って、出てきた陶器の破片を水洗いしたりして、発掘実習体験に参加した。実際に発掘作業をしてみると、実に単純・地道な作業の繰り返しで、気が狂うほどの根気が必要だ、ということを痛感した。

急がれる環境・排ガス対策

 それにしても、アンコールワット(「寺のある都城」の意味)、アンコールトム(「大きな都城」の意味)を中心にした世界遺産の遺跡群にあるヒンズー教の神々の彫像や仏像の数々の美しさは、ヨーロッパ美術と比べても遜色ない。フランスの若き作家、アンドレ・マルロー(のちのドゴール時代の文化大臣)がここにきて、あまりに美しい女神像に見とれて盗掘してしまい、国外追放の罪にあったというのも、うなづけるような気がする。
 このアンコール美術とも言うべき美しい遺跡群に今、全世界から多くの観光客が殺到して、遺跡周辺は大型バスが数珠つなぎで、タクシーや三輪車、オートバイであふれている。遺跡エリアの入口では、大型バスの進入を禁止して、入場カードを各人に発行してミニバスに乗り換えさせてはいるが、これとて、どれほどの排ガス対策になっていることやら。観光に来る渋滞クルマの排ガスが、どれほど遺跡群を泣かせ、傷めていることか、環境対策が急がれている。

【写真2】アンコールトムの南大門の入口までもクルマが乗り入れ、入り込み、お構いなしに排ガスをまき散らしている世界遺産の観光地。

【ミャンマー】

民政移管後、街も市場も活気づくミャンマー

 初めてミャンマーに入るに、カンボジアからはタイの首都バンコクで乗り継ぎ、ミャンマー最大の都市ヤンゴン(旧ラングーン)国際空港に降り立った。途中の空路は、映画「戦場に架ける橋」で有名なクワイ川に沿って旧タイメン(泰緬)鉄道が走る上空で、軽快なクワイ川マーチのテーマ曲が聞こえてくるような錯覚に一瞬陥った。また、これから足を踏み入れるミャンマーの地は戦時中、日本陸軍が補給路なしの最も無謀なインパール侵攻作戦を展開し、多大な犠牲者を生んだところだな、と思うだけで心重くなってくる。
 一転、ヤンゴンの街はそんな気持ちを軽く吹き飛ばすようなクルマの洪水で、渋滞に見舞われるとは思ってもいなかった。街路には人があふれ、活気づいていた。翌日、ヤンゴンから700キロ離れた中部の古都・バガンの街の空港近くの大きなマーケットに入ると、そこでも豊富な野菜、魚、肉、民芸品がズラリと並んでおり、ゲテ物の種類も多く、すごい人の流れと熱気でごった返していた。なるほど、これが2年前、軍事政権に終止符を打ち、民政移管した新しいミャンマーの現実の姿なのか、と理解した。

【写真3】最大の仏教国らしいヤンゴン国際空港

最大の都市・ヤンゴンの信号機は“4色”?

 ヤンゴンの現地案内人の女性は、「この1年半での最も大きな変化は、日本製の中古車で道路が急にあふれ出し、朝昼晩と渋滞現象が起きたこと」だそうで、実際われわれ一行も昼時、渋滞に巻き込まれ、レストランの到着時間も遅れてしまった。また、「この町の信号機は、4色もあるんですよ」という。共通の赤、青、黄色のほかに、もう1つあるとは何だろう。「答えは黒」だそうで、何のことはない、「しょっちゅう、停電があって突然、黒色になってしまうんです」。急な開国で殺到するクルマの交通整理に、電力供給のインフラが追い付かないのか―――。
 町中を走るクルマはタクシーもバスも乗用車も皆、日本製の中古車ばかりで、やはり日本のクルマの品質性能の良さが分かっているのだろう。日本のは丈夫で修理しやすいから、という。それも全く改良もせず、日本から右ハンドルのまま持ってきており、走行はというとイギリスの植民地だったので欧米と同じの右側通行なので、なんとなく変だ。驚きは、車体のペイントもそのままで、日本語の文字がズラリ並んでいる。ボクらの乗っているバスも、名古屋の「知多バス」と書いてあるまんま。
 しかし、ホテルの部屋に入り、テレビのスイッチを入れると、今度は一転、ここは韓国か、中国かと疑いたくなるような韓国や中国のテレビドラマばかりが流されており、日本語の放送は1つもない。カンボジアもそうだったが、こちらはもっとすごく韓流文化に席巻されていて、深刻に考えさせられた。長らくアメリカの経済制裁下にあって、その間隙をぬって、韓国、中国の企業が進出し、重要な情報分野にまで勢いを増していったのだろう。これからは、わが日本が巻き返しを図っていき、存在感を高めていかなければと、素朴な感情が湧いてきた。それには日本企業がたくさん進出して、経済援助もし、日本人観光客もたくさん訪れる必要があろう。

【写真4】ゲテ物も多く、早朝からごった返している中部の古都・バガンのマーケット

「パゴダ」が林立する仏教聖地の古都・バガン遺跡群

 幸い、ミャンマーには「パゴダ」(仏塔、寺院)見学の観光資源が、全国各地に豊富にある。ミャンマーは東南アジア最大の仏教国で、国民の9割が熱心な仏教徒。今でも信仰心が篤く、人々は生活の中でパゴダ建立と寄進行為を繰り返しており、この国では今なお仏教が、「生きている」のである。
 ヤンゴンの市内に入ると、すぐに目につくのがミャンマー最大の仏教聖地、黄金に輝く巨大な仏塔「シュエダゴン・パゴダ」。この国のシンボルともなっている。入口には大きな菩提樹の木。ここから石澤先生のご案内でぐるりと一周。そこここに小さな祠(ほこら)があって、祠ごとに1週間の曜日の神様が祭られており、いつでも祈りをささげに来る人の姿が絶えることがない。日本と違うのは、この国でパゴダに入るには、すべて靴を脱がされる。どこへ行っても素足での参拝。犬や猫、鳥のフンを踏みかねない。
 空路、東南アジア3大遺跡の1つに数えられている古都・バガンにあるパゴダ遺跡見物。(ちなみに残りの2つは、アンコールワットとインドネシアのジョクジャカルタにあるボロブドール遺跡で、これで3つとも訪れたことになる)。バガン遺跡のほとんどは、11〜13世紀の宗教建造物で、そのパゴダの数は、2,300基以上もあるという。これが旧市街地のいたるところに林立しており、朝日、夕日を浴びたパゴダの眺めはまさに絶景。往時は、4,000基ものパゴダがあって、約半分が地震にあって崩壊。その威容を誇った繁栄の源は、この地にルビーと金が取れ、財をなしたという。それがため、11世紀のビルマ族がつくり上げたバガン王朝は、ミャンマーの中心勢力となり、領地を広げ、国土を統一した。

【写真5】「パゴダ」が林立する仏教聖地でもあるバガン遺跡群

アセアン最大の仏教国が、イスラム化の防波堤に

 加えて、王の最も大きな功績は、それまでの大乗仏教から上座仏教に改宗したことで、以降、この上座仏教は出家中心主義と戒律至上主義とで、熱心な布教活動を行い、ミャンマーからタイ、カンボジア、ラオスへと伝播し、どこにおいても村人の中に浸透していった。こうした厳しい戒律の上座仏教の深い浸透は、インドネシア、マレー半島がイスラム教化してしまったのに対して、これらの大陸部諸国をイスラム教から守る結果となったのである。
 このバガン王朝は、豪華な金色のパゴダで首都を埋め尽くし、ミャンマー独自の建築様式を創り出し、ミャンマー語も創出し、繁栄と平和をもたらしてバガン文化の華が開き、今日のミャンマー文化の出発点ともなった。ここにはミャンマー仏教建築の最高傑作「アーナンダ寺院」(1090年建立)、寝釈迦像を納めた「マヌーハ寺院」(1059年建立)、バガンで最も美しく夕日が眺められる「シュエサンドー・パゴダ(1057年建立)等々と、名所旧跡の枚挙にいとまない。東南アジア3大遺跡の1つになっているというのに、なぜこの素晴らしいバガン遺跡だけが世界遺産に認定されていないのか、と石澤先生に尋ねると、ここのパゴダは、何世紀にもわたって常に改修工事を重ねてきており、姿かたちがもとのパゴタから変容してしまっているため、だそうだ。

ひっそりとたたずむ「日本人慰霊碑」

 高さ65メートルとバガンでは最も高いパゴダ「ダビニュー寺院」(1144年建立)の敷地内には、『鎮魂』と書かれた「日本人慰霊碑」が、ひっそりとたたずんでいた。終戦間近い1944年の春から日本軍は、険しいビルマ国境越えのインド・インパールへの無謀な侵攻作戦を展開して、補給路の用意もなく敗走につぐ敗走の大敗、おそらく、この地一帯は大量の戦病死者のヤマとなり、悲惨な白骨街道と化した思われる。われわれ一行の線香が煙の立ちこめる重たい空間に、はたして英霊たちはどれほど慰められているのだろうか―――。
 その碑を管理してくれている老僧の茅屋にお邪魔して、お茶とお菓子と、大変ありがたいお話を聞かせていただいた。自分は若い時から戒律厳しい教義の学問に明け暮れ、日々の修行の中で全存在を仏陀の教えにささげている、とのことだった。
 帰国の日、またヤンゴンに戻り、石澤先生の紹介で、ミャンマー教育支援機構(MESO)の正田信子代表をお招きしての昼食懇談会を催した。MESOは、能力と学習意欲がありながら、貧しいがゆえに高校、大学への進学が困難な子どもたちの就学支援を2007年から毎年行っており、これまで200名弱の就学支援や学校校舎建築・修復工事等の整備もしてきたという。こうしたMESOの活動のほかに、ミャンマーの教育事情や今後の計画などのお話もしていただいた。

【写真6】僧院の敷地内にある『鎮魂』と書かれている「日本人慰霊碑」

日本人が、ミャンマーの子どもたちを教育支援

 正田代表のこうしたミャンマーでの献身的な活動は、慶応大法学部の教授だったお父さん(美智子皇后陛下とはいとこ同士。熱心なカトリック教徒で、上智大の教授もしていた)が定年後、カンボジアに来て教育支援活動に乗り出したのがきっかけ。父の死後、一緒に支援活動を支えてきた正田代表が後を継ぎ、数名の現地スタッフを抱えている。
毎月、現地スタッフが直接子どもたちと会って、ただおカネをあげるだけでなく、勉強方法や試験対策を指導して、できるだけ子供たちが勉強しやすい環境を提供できるよう心がけているという。
 MESOでは、寄付だけに頼らない息の長い支援を続けたいという想いから、ミャンマー産の材料だけでつくった無添加の手作りせっけん「MESO ap」の製造販売を今年からはじめ、日本への輸出販売をしている。このささやかなせっけん販売事業も、現地での雇用機会を少しでも増やし、経済的自立への支援貢献ができれば、と願っているという。
 「MEZO ap 」の商品には、ナチュアル、竹炭、モリンガ、タナカの4種あるが、その1つのタナカは、ミャンマーの伝統的な自然化粧品である「タナカ」と呼ばれているそのもので、主に女性や子どもが日焼け止め用として、顔や腕に塗って使っている。木の幹をすりおろした白い自然化粧品だそうだ。ミャンマーに着いた途端、現地案内の世話をしていただいた美しい女性の顔のほおとひたいに、白い泥のようなものが塗られているのを見て、ビックリした。実はこれが、その「タナカ」だったのか。
 その女性は、流暢な日本語を使って説明しているので、どこで習ったのかと聞くと、 「実は父が戦時中、日本軍の下で働いておりまして、そこで日本語の勉強の指導を受けました。日本軍が撤退したあと、父は子どもの私に、その日本語学習を昼夜毎日してくれまして、“オハヨウ、バカ、リコウ”と覚えたのです」という。それにはボクも複雑な気持ちになって、ジーッと彼女の葉っぱの形をした美しい「タナカ」の顔のほおを眺めていた。

日本不動産ジャーナリスト会議(REJA)

 
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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